泣かないで、小さなひとよ

ぽつんと花畑に座り込む彼女の背中が見えて、私は思わず駆け出していた。

足音が聞こえたのか振り返った彼女の反応を見る間も無く、その背中に勢い込んで抱き着く。

「ただいま」
「っお、おかえり、なさい」

驚いたのか上ずった声を上げる彼女を、愛らしいと感じて口角が上がる。

「ようじ、おわったの?」
「終わったよ。あぁ疲れた」
「あっ。またそれ?」
「良いだろう?癒しが欲しいんだもの」

のそのそと移動して彼女の膝へと寝転がり、甘えるように腹にすり寄ると、彼女は少しの間を置いてから、ゆっくりと私の頭を撫で始めた。気持ちがいい。

「夢……を、あつめてるんだっけ?」
「ああ、それはもう終わったんだ。今日はその後片づけをしていた」
「え?そうなの。じゃあ……じゃあ、もういなくならないの?」
「……そう、だね」

もう、どこにも行く必要は無くなった。

失ったものはすべて取り返した。
彼女はここにいて、その心は、私が持っている。

私が預かっている心を彼女に返せば、すべてが元に戻る。
彼女はこの世界を忘れ、自身に起きた異変など知らぬまま、自分が生きるべき世界へと帰っていく。
その姿が見たくて、柄じゃない真似までしたんだ。さっさと終わらせて、彼女を解放しなくてはならない。

だけど頭を撫でる手の心地よさに、今はもう少しだけ浸っていたかった。
頑張った褒美に、このくらいのわがままは許されたっていいだろう。

なまえを取り戻す為に手放さなくてはならないなんて、まったくとんだ貧乏くじを引いたものだと今になって恨み言が湧いて出る。

やはり英雄の真似事など私には向かない。もうこんな配役はごめんこうむりたい。

「マーリン」
「うん?」
「ずっといっしょに、いられるんだよね」
「……どうしたんだい、急に」
「うん……どうしたのか、わからない、けど」
「……?」

歯切れの悪い返答にその表情を見上げてみたら、驚くことに彼女は泣いていた。

「っえ、ちょ、ど、どうしたんだい?」

再三言っているとおり、私はなまえの泣き顔が本当に苦手なのだ。
それもここにいる彼女は泣く筈が無いと思っていたから、ぎょっとして思いっきり動揺してしまう。

膝から頭を上げようとした身体を押さえつけられ、元の位置に戻される。
大丈夫だから、と首を振り涙を拭う様子をぽかんと見つめる私に、彼女は声を震わせながらも一生懸命、拭えども溢れる涙と共に感情を吐露し始めた。

「っま、マーリン、は、いつも、やさしくて……やくそく、したから、ぜったいだいじょうぶっておもってたんだけど、でも、なんか……いままでは、やくそくなんかなくっても、もどってきてたから……きゅうにっ、ふあん、に、なって……ごめん、なにいってるのかわからないよね」

わたしもよくわからないの、とぼたぼた涙を垂れ流しながら彼女は言った。

「……ごめん。いつもと違うことをしたから、余計に不安にさせてしまったんだね」
「っ、ううん、ほんとにうれしかったの。でもなんだか、とても……こわくて……マーリンが、もどってこなかったら、どうしようって」

濡れた頬に手を伸ばし、目じりに溢れる涙を親指で掬うと、また更に雫が溢れた。いつか見た顔と変わらない。

「――こうなって尚、キミは僕といたがって泣くのか」
「……?こうなって、って?」
「いや」

自分に起きた異変など何も知らない彼女には分からない。
人格も記憶も心も失っているというのに、それでもなお湧き出る思いというのもあるのか。

――いや、身近な人物を失う危機に恐怖するのは人間の根源的な危機意識の表れ、なのかもしれないが――というか、そうだろう。

――それでも、私を思って泣くキミを、愛おしいと感じた。

なまえに泣かれるのは苦手だ。笑っていてほしい。怒った顔も可愛いけれど、幸せそうにしている姿が一番好きだ。

……だけど本当は、どんな顔だってそれがなまえ自身の姿なら嬉しかった。
なまえの全部が好きで、色んな顔を見たいと思ったから。

そっと彼女の手を取り握り締める。安心させるように微笑むと、強張っていた表情が少し和らいだ気がした。

「っご、ごめんね、ないたりして。もうこわくないよ。マーリンは、かえってきてくれたもの」
「うん。……もう大丈夫。何も心配いらないよ」
「そっか……うん、よかった……。わたし、マーリンとずっといっしょにいたい」
「うん。僕も。僕もキミと、ずっと一緒にいたい」

キミと僕だけの世界。秘密の箱庭。夢の花園。
僕が夢見た、キミとの時間。

キミとの誓いは、キミが今のキミでいる間だけのもの。
世界に、ヒトに望まれる「なまえ」に戻った瞬間、キミは私の手を離れていく。

ずっと一緒にいたかった。キミとこうして過ごす時間は本当に夢のようで、いつまでも微睡んでいたかった。

だけどこうしていてもやっぱり寂しい。
ずっと一緒にいたいと二人思い合っているのに、一つも通じ合ってなどいない。
何を選んでも、何かを取りこぼしてしまう。

この恋は、初めから僕の失恋で終わっていた。

目を閉じて、しまい込んだなまえの心を内に描く。

……これをいじれば、彼女から不要な情報僕への恋心を消し去ることも出来なくは無いけど……、……僕は、あの恋情いろが恋しいと思う。

誰かの中にいるキミが好きで、
僕を思うキミが……――愛しい。

これを返せば、なまえは元の輝きを取り戻す。
私に恋をしてくれたキミへと戻る。
私が手に入れられないキミへと還る。

私の手の届かない彼方へ。
キミを帰さなければならない。

「――ねぇ、聞いてくれるかい」
「うん?なぁに」
「とても大事な女の子の話」
「わたしのこと?」
「そう。キミのこと」

繋いだ手の甲に口付けて言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「最初はちっぽけだなって思っただけだった。この子で本当に大丈夫かなって。実際何もかも手探りで無茶苦茶で、とても最後までたどり着けるとは思えなかった。それでも無我夢中で走り続けた先に、ついに世界は救われた。そんな子がどうして声を押し殺して泣かなきゃいけないのか、そんなのは悲しいじゃないか。僕が笑顔にしてあげたくて、見ているだけでいるのをやめたんだ」
「……?」

自分のことだと言われたのに、身に覚えの無い話をされたせいか、彼女は不思議そうな顔を浮かべた。気にせず言葉を続ける。

「元気を出してほしくて色々手を尽くしたよ。そうして傍にいるうちに、僕らはとても仲良くなった。向けられる感情がくすぐったくて、たまらなくて。もう少しだけ、なんて思っているうちに、いつの間にか貪るようにそればかり求めていた」

そうして気が付いたら取り返しのつかない事態に陥ってしまっていた。
ただ無言で向けられるだけならそれで良かったのだけど、なまえは私に好きだと告げてしまったから。

あのとき、本当は少しだけ迷った。
恋人という枠に収まること自体は簡単だ。だから、キミを愛するマーリンを演じるだけならいくらでもしてあげると、そう言ってしまおうかと。
だけどそんなのは私にとって都合が良いだけで、なまえには何の益も無いことだった。
そこでやっと私は、なまえをいたずらに消費していた己に気づき、愕然とした。

「僕は美しいものが好きだ。そして悲しいことは嫌いだ。ハッピーエンドに彩られた世界とか、絶望を上回る幸福感とか、恋に沸き立つ心とか、そういうのが大好きなんだ。でも、そのすべてをくれた存在を僕は食い荒らしてしまった」

何も知らないキミに、懺悔のように語るのは狡い気もするけど、心を取り戻した本人にこんなことは語れないから、どうか心の影に、この告白を刻んでおいてほしい。

「今まで、たくさんの人間を消費してきた。でもそれは僕にとっての食事でしかなかったから、そこには何の感慨も無かった。欲しいものはその先にあって、そんな犠牲は僕にとって何の不都合も無かったから。でも――」

そうしてなまえを消費した先に、果たして私の見たい景色があるのか。そう考えたらぞっとした。

私に食われたかつての人間たちと同様の末路を辿るなまえなんて見たくなかった。
幸せに笑っている姿が、世界の何よりも美しい。

いいや――私にとっての世界とは、なまえが幸福でいられる世界のことなのだと、そう思えた。

「キミには、幸せでいてほしい」
「わたしはしあわせだよ」
「うん。……でも、泣かせてしまった」

何度も何度も悲しませた。
それなのに、もう後には戻れないなんて言い訳して、触れるのをやめなかった。

やめられなかったんだ。

私が触れると、それだけでたくさんの熱が降り注いで、もっと食べてと言われているかのようだった。

ここにいるキミはそうじゃない。私に何も差し出したりはしない。私はキミに与えるだけ。
理想的な関係だと思えた。
あの熱を感じられないのはとても寂しかったけれど、ここには夢見た一つの世界があった。
なまえがわらっている世界。……なのにキミは、やっぱり泣くんだ。

――泣いてくれて、良かった。

キミをここに閉じ込める理由はすべて無くなった。
キミが泣いてしまうなら、こんな世界はやっぱり必要無い。

頭を起こすと彼女へ身体を寄せる。まだ涙の痕が残る顔を指先でなぞると、くすぐったそうに彼女が目を細めた。

「泣かせてごめんね」
「マーリンのせいじゃないよ。それにもう、だいじょうぶだから」
「――いや、僕のせいだよ」
「え……」

泣いたせいで乱れた彼女の前髪を指先で払う。
キミが泣くのはたいてい私のせいだ。今もそう。
でも――本当は、キミが私のことでばかり泣いてしまうことを、ほんの少しだけ嬉しく思ってもいた。

「この場所でなら、キミに与えるだけの日々を送れるかと思っていたのに。結局僕は、キミに与えられてばかりだった」
「あたえ……って、なにかあげたっけ。花冠?」
「すべてを」
「すべて?」

何色でも無かった私に与えられた、キミという存在のすべて。
感覚、衝動、熱、反応。何者でもなかった私を、キミに恋する男へと変えたもの。

「そうやって与えてばかりいるから、こんなことになってしまうんだよ?」
「こんなことって?」
「呪われて捕らわれて眠りの中……なんて、まさにお姫さまだね。私が英雄の真似事なんてさせられるわけだ」
「マーリンがわたしの王子さまってこと?」
「ふふ、そうかもね」

なまえという存在の前では、私もただの男でしかない。
だけどただの男なら、姫を呪いから解放する王子の役が回ってくることもあるだろう。

なまえと二人楽園で過ごすという夢。キミの為に戦う英雄になるという夢。そして最後に、キミの呪いを解く王子となる夢。

半魔の魔術師には望むべくも無い、叶えてはならず、叶えることの出来ない数多の夢――。

「うん……夢の終わりを彩るには、これ以上無い役柄だ」
「マーリン?」

彼女の肩に額を埋め、すり、とその首筋にすり寄った。
問うようにかけられた声には応えず、無言でその身体を抱き締めると、自然と彼女も私の身体に手を回して、背中を優しく撫でられる。

「――ねぇ、お姫さま?」
「なーに、王子さま」

私の言葉に、彼女が楽し気に言葉を返す。
額を首筋に埋めたまま、声音に甘さを滲ませて、彼女へもう一度声をかけた。

「姫と王子の物語なら、ハッピーエンドであるべきだ。そうだよね」

言いながら埋めた額を上げ、そっと彼女の顔を引き寄せる。
言われた言葉に笑みながら、何も知らない彼女はその行動の意味が分からず首を傾げた。

「何するの?」
「呪いを解くんだよ」
「どうやって?」
「こうやって」

答えると、愛らしい唇に自らの唇をそっと重ねる。
数瞬の間をおいて顔を離し、何をされたのか理解出来ていない彼女の耳元で、最後の言葉を告げた。

「キミが好きだよ」

だから、さよならだ。

「……、……―マー、リン?」

至近距離で見つめたその瞳は、もう無垢で何も知らない少女のものでは無くなっていた。

「今っ、いま、なんて」

震える声で尋ねるなまえの頬を指先で撫でると、私は彼女から手を離した。

花園が崩壊していく。

自我の無い彼女に代わって私が用意した世界は、なまえ自身を取り戻したことにより、見る見るうちに失われていった。
ここはもう、二人きりの世界などでは無い。

キミの世界に、キミを還す。

「っ、ま、って、待って!ねぇ、マーリン!」

崩壊する世界など目もくれず、なまえは私に向かって手を伸ばした。
けれど触れることは叶わないまま、なまえは私の目の前から、消えた。

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