きみという花
「なんかへんなかたちの花だね」
仰向けに寝そべり、渡した花の茎を指先につまんで眺めながら彼女が言った。
「可愛いだろう」
「うん、かわいい」
つんつんと花の部分をつつきながら彼女が微笑む。
「なんて花?」
「スノードロップ」
当然彼女は忘れているが、以前にも贈ったことのある花だ。
スノードロップ。
短い茎から垂れ下がるように、三枚の白い花弁が内側の短い花被を覆い咲く姿が、まさに
「この花がなに?」
「キミに似合う花」
「わたし?なんで?」
「この花にはいろんな言い伝えがあってね」
寝転ぶキミの隣であぐらをかきながら、自身もスノードロップを手に取る。
ここに植わっている花は彼女か私の意思で如何様にも変わるから、望めばどんな花でも、まるで最初からそこにあったかのように咲かせることが出来るのだ。
「例えばこの花は、春を待つ花、なんて言われていたりする」
「はる?」
「……ああ、そういえばここには四季が無いね」
枯れた冬などこの地には訪れない。
常に春の陽射しに照らされた庭で春を待つ、なんて言われても、分からないのも無理は無い。
すっと徐に掌を目の前に差し出す。
ひらりとその手の中に白い結晶が舞い降りた。
「ほら、雪だ」
「つめたっ」
しんしんと降り始めた雪が頬にぶつかって、彼女はびくりと身体を震わせた。
起き上がった彼女を抱き寄せると膝の間に抱き込んで、その身体をすっぽりと覆う。
「凍える冬の後に、暖かい春が来る。この花は春の訪れを知らせる、希望の象徴なんだ」
「きぼう」
「キミにぴったりだよ」
「ふうん」
背中を私に預けながら、まじまじと空を見上げ彼女がぽそりと呟く。
つられて見上げた空は青空のままなのに、雪は静かに降り注いで、けれどその冷たさが私たちの体温まで奪うことは決して無い。
それでも私は、彼女を抱き締めたい気分だったからという理由でそうした。
こうして彼女に触れていると、伝わる体温に関係なく不思議にぽかぽかした気持ちになって、やっぱり彼女は春を告げる花に違いないと思う。
言い伝えには、「死んだ恋人の遺体にスノードロップを置いたら、彼は雪のしずくとなって消えてしまった」なんていうものもあったりして、死を連想するからとこの花を忌避する文化も実はあるのだけど、それは話さずとも良いだろう。
だってここには死の概念も存在しない。
私も彼女も、何もかも、ここでの時間は永遠だ。
「あとは清らかな花だとか、純潔の象徴だとか言われているね。でも私がキミに似合うと思った一番の理由は、この花が色をくれる花だからさ」
「いろ……?」
彼女が不思議そうに尋ねる。
ぎゅうと強くその身体を抱き込むと、柔らかな頬にすり寄りながら私は言った。
「雪には昔、色が無くて。お花さん、どなたか私に色をくれませんかって頼んだんだ。だけど冷たい雪に色をくれる花は一つも無くて、雪は途方に暮れていた。そうしたら、ひっそりと片隅に咲いていたスノードロップが、良ければ私の色をどうぞと言って、その色を分けてくれたんだって」
「だから雪はしろいの?」
「そう」
「きれいな色をもらえてよかったねぇ」
にこにこしながら彼女が言う。
「そうだね。綺麗だ」
微笑み返して答える。
――この花となまえは似ている。
私もなまえからたくさんの色を貰った。
なまえが私に向ける熱は実に様々な色をしていて、それらはすべて知っている色だと思ったのに、どうしてか感じたことの無いもののように思えた。
「……うん。やっぱり、取り戻さなくてはね」
「うん?」
不思議そうにする彼女から腕を解いて立ち上がる。伸びをして、よし、と声に出すと、努めて明るく彼女に語り掛けた。
「野暮用を済ませてくるよ」
「また?」
「ああ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、必ず帰ってくるから。良い子で待っているんだよ」
未だ座ったままの彼女の頭を撫でると、いってらっしゃいと言われてにこりと微笑み返す。
「あ、そうだ」
「?」
「いってきます」
「んん」
ちゅ、と彼女の頬に口付けると、くすぐったそうに身をよじられる。
良い子にね、と再び頭を撫でながら言うと、彼女は素直に頷いた後、こてんと首を傾げて言った。
「なに?」
「いってきますのキス。嬉しくない?」
「んーと、うれしい」
私が口付けた頬を指先でなぞりながら、彼女がぽつりと呟く。
僕も嬉しいよと言って、今度こそ踵を返すとその場を後にした。
◆
「この世界を望んでいたのは、僕の方だ」
花園を離れ、夢の狭間に降り立つと、ふとそう独り言ちる。
要らない筈だった。
必要が無いなら欲しがる道理など無い筈だった。
それでも私はなまえを欲した。
喪って嘆いていた筈なのに、
だって喪ったということは、手放す必要も無いということだ。
なまえの心が大事だった。
大好きだったと言って良いと思う。
だから守りたかった。
その輝きをくすませるようなものは、自身を含めてすべて要らないものだと思っていた。
そして私にとってなまえは、ただ見ていたいだけの存在だと、そう思っていた筈だったのに。
そうではなかった。
触れていたくて、奪ってしまいたかった。
――この世界は、それを叶えさせてくれた。
心を喪ってもまだ、私は彼女を欲しがった。
無くしたものを惜しく思いながら、無くなってしまったのならもうこれ以上壊れることは無いと思ってしまった。
必死に灯し続けようとした輝きも喪われた。
喪われたのなら、消してしまう心配も無くなる。
なら、一緒にいたって何の問題も無いじゃないか?
「キミもそう思ったのかな。ねぇ」
カルデアをそのまま映し出した世界に足を踏み入れ、目の前に佇む人影に向かって声をかける。
問われて振り返ったその姿は、いっそ不快なくらいなまえにそっくりだった。
「マーリン?……マーリンなの?」
はっと驚いたような仕草の後、なまえの姿をした何かは、感激を顔に滲ませ私の元へと走り寄った。
その姿を、笑みを象った表情で見下ろす。
「如何にも私はマーリンだが、キミにそんな顔をされる謂れは無いな」
目の前の存在が表情を歪める。
「……、私のこと、どうでもよくなったの?」
「キミのことはどうでもいいよ」
あっさりそう言い放つと、目の前の存在はまなじりに涙をためて唇を噛んだ。
泣くのを堪えるように身体を強張らせ、声を震わせながら問われる。
「どうしてそんなこと言うの」
「僕の大事なものを壊したキミを遠ざけることは不思議でも何でも無いだろう?」
なまえの姿をした何かは、もう一度悲し気に唇を噛むと俯いて拳を握った。
正体を現せ、と言いたいところだが、これに正体と呼べるほどの自我などおよそ存在しないことは分かっている。
これは――彼は。
私と、殆ど変わらない
いや、私と、というよりも、夢魔と、と言うべきか。
本来夢魔には自我も嗜好も無い。
とりついた宿主の精神を食し、その
彼もまたそうした存在に近しい。
人に取り憑き、精神を貪り、その人間へと成り代わる。
どうやら彼は、食した魂を自身の心としてしまう存在であるらしい。
本来彼のような存在は、既に地上から去って久しい筈だ。
私の同胞が一人残らず消えてしまったのと同じように。
だから当然、彼となまえは出会うべくも無かったのに、偶然に偶然が重なることで、二人は邂逅してしまった。
「なまえの運命力ってやつなのかなぁ。悪運が強すぎるのも考え物だ。裏を返すと、運自体は悪いということだからね」
愚痴るように呟いてやれやれと首を振る。
最悪の事態を免れたところで、最悪の一歩手前を常に引き寄せるのがなまえという存在なのだ。
だからこそなまえの描く物語に惹かれたのだけど、もう私はただの読者ではいられない。
「僕は夢魔だ。キミがなまえ自身で無いことはよく分かる。キミは確かに彼女の心を持っているのだろうけど、それだけだ。キミの反応はすべてその心の色を真似ただけの贋作。あの熱も、鮮烈な色彩も、キミ自身からは感じないもの」
「何を言ってるのか分からないよ」
「そうだね。彼女はそういう態度を取るだろう」
困惑した様子の彼に一歩近づく。すると彼は驚いたように一歩後ずさった。
くすりと唇に笑みを乗せる。
「マーリン?何か変だよ。どうしちゃったの」
「どうもしない。僕はいつだって僕だよ。ねぇ、返してくれないかな」
「かえ……す?」
すぅとなまえを模した姿の、胸のあたりに指を伸ばす。
「これ」
「っ!」
咄嗟に自身の胸元を掴んだ彼が、飛び上がって後ずさる。
ぎろりと睨みつけるその姿もやはりなまえにそっくりだ。
彼の感情表現はすべてなまえの心を元に行われているのだから、当然だ。
「そこにあるんだろう?まだ」
なまえの心を元にしている、ということは、未だそこに心は残されているということだ。消化されてしまったわけでは無い。
それを指摘した途端、彼は敵意をむき出しにしてじりじりと距離を取る。
「これは駄目。これは渡せない」
「どうして?」
「私がいなくなってしまう」
「他の誰かを探してほしいなぁ。必要なら斡旋するから」
きっ、と彼が私を睨みつける。なんてひどいことを言うんだと言いたげだ。
キミのような存在にそんな目で見られる筋合いは無いのだけど。
「絶対嫌、駄目。私は私でいたい!」
「きっとなまえもそう思っていた」
私の指摘に彼の眉間の皺が深まる。
「なんにも知らないくせに、知ったふうなこと言わないで」
「何も知らないくせにとはご挨拶だな。キミのことはよく知らないけど、なまえのことなら少しは知っているつもりだよ。たとえ彼女に共感出来なくたって、その精神性についてなら少しは語れる」
だってまずそこに手を付けたのは他ならぬ私なのだから。
なまえの心を摘まみ、食んで、夢中で抉っているうちに、捕らわれていた。
「精神性について語れる?ならどうして
悲しみに染まった顔で彼は言った。
しかし微かに放射される情念からは、怒りの色を感じた。
……怒り?
「……なんと。怒っているのかい、キミ」
驚いて問いかけると、彼もまた目を見開いて驚いたような顔をしてみせた。
直後に目を伏せ、その顔から
「怒ってちゃ悪い?世界が無くなることも本当は知ってたんでしょ。それなのに黙ってたのはどうして?」
「……それがキミが怒ってる理由?」
「他に心当たりでもあるの?期待させておいて無責任なこと言って逃げたこととか?」
自嘲するような笑みを浮かべながら彼が言う。
目を細めてその顔を眺め、考える。
確かになまえが怒る理由としては納得出来るが、先ほどのような怒りの色は感じられなかった。
今の問いはなまえの感情の模倣に過ぎない。
どうせなら愛らしく赤面する姿とかにしてくれたらいいのに、と考えてから、実際にされたのを想像してみると胸の中に泥を流し込まれたような不快感が襲って、思わず眉を顰めた。
「どうして放っておいたかだけど」
はぁとため息を吐くと、最初に問われた台詞を蒸し返す。
すると彼はぴくりと眉を上げ私の顔をじっと睨むように見つめてきた。私もその目を見つめ返す。
「なまえには、自分の為に世界を取り戻す意思を持ってほしかったからだよ。そもそも僕が召喚に応じたのもその為だ。元々後方支援の延長だったんだ。もう一度立ち上がる強さを彼女に――そして立ち上がった後は、その足で歩けるとなまえ自身が証明する必要があった。僕など要らないのだとなまえ自身が知らなければならなかった」
説明しながら目を伏せる。
実際になまえは立ち上がり、歩き出したのだから私の目論見は何とか成功した。
だけど本当に自分など要らないのだと目の当たりにするのは、いつか訪れる忘却を想起させて、無性に寂しい気持ちになってしまった。
なまえが欲しいと気付いてから、元々空いていた胸の空洞が却って拡がったような気がする。
なまえの孔を塞ごうとして、自分の孔を拡げてしまうとはお笑い草だ。
いつか必ず失われてしまうものを、失いたくないと思ってしまった。
致命的なエラーだ。
間違っている。
――間違った欲は、きっといつか破滅を呼ぶ。
「……だから私は消えた。納得したかな?」
私の言葉に、じとりと睨みつけていた目を蔑むように彼は細めた。
「消えたというわりに、半端にちょっかいは出してたよね」
「何だ、気づいてたのかい。なまえは分かっていなかったのに」
彼の言う通り、私は別れを告げた後も、幾度かなまえの夢を訪れていた。
なまえ自身はどうやら殆ど覚えていないようなのだが。
何せなまえは私が夢の中に会いに来ることをちっとも期待していないらしく、会いに行っても私だと気づかれすらしない。
会えないと思い込んでいるから気づけないようだ。
なまえの期待を折り続けたのは私自身だが、もう少し夢見てくれたっていいんじゃないか?
自分勝手は承知の上で心の中でぼやく私に、彼はいっそう胡乱げな目を向ける。
とぼけて首を傾げてみせたら、興味を無くしたように目線を逸らされた。
「いい。わかった。おまえはもう要らない、それは正しい。あとは私に任せてもう帰っていいよ。その前に盗ったものを返して」
「盗人猛々しいとはよく言ったものだな。キミが奪って、僕は守っているだけだ。返せと言われる筋合いは無いよ」
手を伸ばして催促する彼に拒否を示すと、彼は俄かに怒りの情を発した。
彼自身に怒りなど宿る余地も無いと考えていたのだが、もしや彼は夢魔よりも寧ろ私に近い存在だったのだろうか。
彼が返せと言っているのは、あの箱庭、つまりなまえ自身の心の殻のことだろう。
魂の容れ物であるあの箱庭が無ければ、彼は真になまえの魂と同化することは出来ない。
あの殻に囲われて初めて魂魄というものは完成する。
「もう一度言うけど、他の誰かに鞍替えしてくれないものかな?何ならレイシフトを使って過去へ行くという手もある。何せ世界は今滅んでいるし、過去の方が寧ろ都合がいいだろう。わざわざ過酷な旅をキミが引き受けなくとも、過ごしやすい時代で生きやすい誰かに寄生すればいい」
尤もな提案だと思ったのだが、彼はそれでも表情を和らげることは無かった。
その目には未だ明確に拒絶の意思が宿っている。
「私は
「……どうして?正直、そんなに住み心地のいい肉体では無いと思うのだけど。だって世界を救わなきゃならないんだ。わざわざそんな苦労を背負いこむメリットなんて無いだろう?」
「だから私は
「……だから、とは?」
「
「…………」
彼の口から出た言葉に一瞬閉口する。
なまえの中に寄生していたのなら、勿論気づいていて当然のことではあるのだが。
なまえの精神は、呪詛に侵されていた。
彼女が懸命に駆けた旅で得た代償。英霊との絆の証。
……その夢において、犠牲にしてきたものの怨嗟。
なまえ自身の後悔。心の澱。
目にすることの無いよう、私が隠しておいたもの。
「
彼の言葉は正しい。
私はなまえ自身がその呪詛に飲み込まれてしまわないよう目隠しはしたが、それを祓うことはしなかった。
適任者が他にいたので任せていたし、実際それで上手く行っていたように思えた。
「
――そうしてなまえの心は磨耗し、その隙に呪詛は這い寄り彼女の心を更に蝕んだ。それは分かっている。
だから私は彼女を慰め、見なくていいものを見ずに済むよう、穏やかな夢をなまえに与えた。
「痛みを取り除きたかったのに、塵と泥がそれを邪魔した。だから食べたよ、全部。全部食べて、思った。こんなものを
彼の瞳に火が点る。
それはなまえの光とは違い、奇妙に揺らめいて見えた。
「もう二度と痛まないよう、私は代わってあげただけ。
穏やかに微笑んで彼が言った。
その声は確かに何かを慈しむようだった。
「ねえだから、
「返すのはキミの方だ」
頑として言い張ると、穏やかだった彼の顔が歪んだ。
「――どうして」
「どうしてもこうしても無い。僕だってなまえが泣かないで済むなら大いに喜ぶが、眠ったままでいられては何の意味も無いからだ」
「そうやって
「……そうだね、少し反省したよ。より美しいなまえが見たくて無茶をさせた。もっと丁寧に、優しく支えてあげればよかったなぁ。気づかせてくれてありがとう。今後活かそう」
「どうするつもり?私は
「……だと思ったよ」
彼のような存在は、言ってしまえば「そういうシステム」だ。
条件を満たせば自動的に発動してしまうもの。
彼におよそ自我と呼べるものは無いと考えていたのはその為だ。
まさか実際には自我と目的を持ってなまえに取り憑いていたとはね。
それが吉と出るか凶と出るか。
まったく、こんな勝算の薄い賭けなど本来はしないのだけど。
――しないことには、彼女を取り戻すことなど絶対に出来ないのだから、やるしかない。
そう考えて、ふと小さく笑いが漏れた。
取り戻したい誰かがいて、その為に勝てるか分からない勝負に挑む、なんて――まるで、物語の英雄のようじゃないか。
本来なら、私はそういった柄じゃない。
というか、そういう存在にはなれない。私は人間ではないから。
だけどここは夢の中で、今なまえを救えるのは私しかいない。
私だけが、今のなまえにとっての英雄になりえる。
だったら英雄が負ける道理があるだろうか。
捕らわれの姫は必ず救われるから、英雄譚は英雄譚たりえるのだ。
それなりに長く生きたものだが、自分が英雄の真似事をするなんてついぞ思っていなかったから、何だか妙にくすぐったい気分だ。
なまえはここにいないのに、なまえにつけられた色はこうして私を動かしてしまう。
なまえの為なら英雄にだって、なってみせようじゃないか。
「キミのことを調べた。キミはかつて人々に信仰された神が魔に堕ちたもの。成り代わりはキミの権能が退化したものだ。元々のキミは人々の弱さを自らに取り込み消化することで感謝される存在だった。本来なら人に愛された神だったのに、どこでどうしてそうなったのやら。別に興味は無いけど」
「何が言いたいの?」
「神に願いをかけるには、対価を差し出せばいいという話さ」
集めた夢を手のひらに乗せる。その光を目の当たりにして、彼が目を見開いた。
「ここに、僕が集めた夢がある。なまえと契約したサーヴァントたちが、彼女を思って見た夢だ」
「
「これとなまえの心を交換しようじゃないか。キミは何者にもなれはしないが、これだけの人間の心を食す機会などもうキミには二度と訪れないだろう。失ったキミの力も、相応に回復する筈だ。――何より、キミがなりたかった存在を思う光だ。欲しくないとは言うまい」
そこまでなまえに思い入れていたとは思っていなかったのだけど。
ただなまえを見初めたのならそういう嗜好だろうと思ったに過ぎない。
英霊の夢ともなれば、その栄養価も常人とは違う。
正当な対価さえあれば、こうした魔物とも契約や取引が可能だ。
というより、彼らはそうした存在なのだ。
けれどそれも、この夢の価値を彼が認めなければ成立しない。
この夢を喰らうより、なまえの代わりを勤める方が彼にとって重要であったのなら、この夢は何の意味もなさなくなる。
「――きれい」
彼がぽつりと呟く。伸ばされた手が光に届く前に自らも手を差し出してそれを制止すると、彼ははっとした顔をして私の顔を見た。
「欲しいのかい?」
「…………」
「欲しいのなら、返しておくれ。これは正式な取引だ。無理矢理奪う、なんて野蛮な真似はやめておくれよ?キミも私も、そういうのは向いてない」
静かに諭すと、彼は持ち上げた手を力なく下ろした。
黙り込んで何も言わない彼に、追い打ちをかけるべく言葉をかける。
「キミはなまえになると言ったが。そんなことは不可能だ。分かっているんだろう?キミに出来ることは、取り込んだ情報を元に正しく動作することだけ。キミがなまえを選んだ理由は何だい?――美しいと思ったからじゃないのかい」
そうとは限らなかった。寧ろたまたま出会ってたまたま取り憑いた可能性の方がずっと高い。
だけど彼はこの夢を綺麗だと、そう言った。
ならばその筈だと、私は半ば確信していた。
「この光を、永遠に失うことになるんだよ。泣かない代わりに、色づくことももう出来ない」
「――色」
ぴくりと彼の肩が揺れる。
「私は――そう。綺麗な色をしていたから、惹かれたの」
ぽつりと漏らされた言葉に、内心で私はほくそ笑んだ。どうやら私は賭けに勝ったらしい。
「私には色が無い。私という存在が無い。だから惹かれて――同じ色に、なりたかった」
「――」
そのまま畳みかけようと開いた口を、彼の言葉で遮られる。
色の無い存在。
それを欲しがったもの。
彼にとっても彼女は、まさしくスノードロップであったらしい。
「でも――私では、為れない」
「そうだ。キミはあくまでキミでしかない」
誰も、なまえの代わりになんてなれやしない。
どんなに同じように振る舞っても、あの美しさはなまえ自身からしか生まれ得ないのだ。
「心を失った彼女でさえ美しいと感じたのに。どうしてだろうね、キミは言葉通りの生き写しなのに、こんなにも空虚だ」
言うつもりはなかった言葉が自然と滑り落ちた。
私の言葉に彼が自嘲するように微笑む。
「でも、傷つけたくない」
「それは――僕も同じ気持ちなんだけどね」
悲しむなまえはそれこそ痛ましくて、私自身が苦しい気持ちになるものだから、どうか泣かないでほしいといつも願っていた。
「でも、なまえは……痛いのも全部、捨てたくはないと言っていたよ」
本当に人間というのは不思議なもので、痛くても傷ついても良い、なんてこともあるらしい。
昔の私なら――いや。なまえのことでなければ、その考えを理解出来ずとも、結果訪れる光景に手放しで喜んだものだけど。
私の言葉に、彼は目を閉じると「知ってる」と呟いてため息を吐いた。
なまえの心は今彼の元にある。
だからなまえが何を一番望んでいたのかも、彼は知っているのだろう。
「もう傷つけないって約束してくれる?」
「……、努力はする」
「何それ。……まぁ「絶対傷つけない」なんて言われても信じないけど」
「えぇ、ひどいなぁ」
私の言葉に、彼がからからと笑う。
私はなまえの声も好きなのだけど、別人が発していると思うと、どうにも不思議な居心地の悪さに襲われた。
「マーリンってさ。
「……キミの口から言われると妙な気分だな。でも、うん、そうだよ。なまえが好きだ」
口にすると、ざわざわと胸が湧きたつ心地がして、知らず拳を握っていた。
なまえはよく私に言った。「マーリンも私のこと結構好きだと思うよ」と。
それは強がりだったり、口にすることによって私がいつか認めることもあるかもしれないという期待、なんだと思っていたのだけど。
――間違っていたのは、どうやら私の方だったようだ。
「やっと気づいたんだ。私のおかげじゃん」
「こっちは心臓が止まるかと思ったんだ、キミのおかげとは言いたくないな。気づいて良かったのかも、分からないし」
「
言うと、彼は自身の胸に右手を突き入れた。
ずるりと引き抜かれたその手に握られているのは、なまえの心。僕の――宝物だ。
「では、僕もこれを」
「ダメ」
「え?」
掌に集めた夢を差し出そうと掲げたものの、先刻返すと言った筈の彼に拒まれる。
意味が分からず眉を寄せると、彼はじっと私の顔を見て「お前の夢もよこせ」と横柄に要求した。
「うん?僕の?」
「おまえが好きだと宣うほどの夢なら、きっと私にとってもたまらない色をしているだろう」
「なんて強欲な神なんだキミは」
対価としてなら、私が集めたもので十分だと思うのだが。それでは不足だというのだろうか。
「好きな女の為なら命くらい賭けて当たり前なのに、それで勘弁してやると言ってるんだ。寧ろ感謝しろ」
「いきなり口が悪くなったな……。僕の夢なんかあっても無くてもそう変わらないだろう?」
「他人のもので大事なものを取り戻すつもり?」
「夢の価値は変わらないよ」
「取り戻せなくてもいいんだ?」
「……ホント嫌な神堕ちだなぁ。まぁ、いつでも人から勝手にいただいている僕が渋るのも何だけど」
空いていた右手を掲げると、そこになまえにまつわる記憶を集めていく。
私自身の記憶。
ただの記録で、先ほどの夢とは違うものだ――と、言いたかったのだけれど。
「うん、これは確かに、僕の夢だ。僕がなまえに見た、夢」
「よこせ」
「…………」
これを渡したからといって、私の中からこの記憶が、夢が消えてしまうわけでは無い。
それなのに、これを誰かに渡してしまうのは――とても惜しい気がした。
「手のひらに乗るほどのちっぽけな宝石でも、僕にとって、こんなに…………」
なまえに抱いたこの夢は、僕だけのもの。
誰にも理解され得ない夢魔が、もしかしたら唯一、誰かと分かち合える感情なのかもしれないのに――これを誰かに紐解かれるのは、とても嫌な気分だった。
「……でも、そうも言ってられないな。何より大事なのはなまえ自身だ」
両手のひらの光球がぽうと瞬いて浮かび上がる。
二つが交わって一つの光球へ姿を変えると、彼の持つ光もまた浮かび上がり、それぞれが交差して、ついに私はなまえの心を取り戻した。
彼もまた、自らの手に宿った光を大事そうに抱え込むと、その胸の内に文字通りしまいこんで、心底嬉しそうに微笑んでいた。
「……あぁ。……きれい」
ぽろり。
なまえそっくりの輪郭は薄まり、ぼやけて揺れる瞳の端から、涙らしき雫が弾けた。
取り戻した心をしっかりと隠し終えると、私は彼の言葉に返す。
「そうだろうとも。キミはその美を壊したんだよ」
「手厳しいな」
「当然だろう。僕はキミが嫌いだ」
なまえが喪われたと気づいたときの暗闇を思い出す。
すべてを見通す筈の視界が何一つ機能しなくなったあの瞬間の衝撃は、忘れたくても忘れられない。
「さぁ。それを持って、キミはあるべき場所に帰りたまえ。……僕も、帰るから」
そう言うと、だいぶぼやけて霞のようになった彼の輪郭が、首を傾げるような仕草をした。
「帰るよ、僕も。キミの隣にいても僕の隣にいても、なまえの美しさは得られない」
「また――そうやって、あの子を泣かせるの」
遠く響くように聞こえた声に、なまえの面影は殆ど無い。
私は苦笑を浮かべると、首を横に振って答えた。
「なまえに泣いてほしくないのは一緒だと言ったろう?キミが間違えたように、僕もきっと、正しくなまえを愛せない」
ぐにゃりと影が揺らぐ。
「そう怒るなよ。僕は嬉しいんだ」
揺らいだ影が、煙のように揺蕩い私の周りをぐるりと取り囲んだ。
「なまえはこれからも光の中を歩んでいく。けれどもう、一度自覚した欲はどうにも出来ない。だから本当は――少し不安だった。こうしてなまえの心を手に入れた僕が、どうしてしまうのか。このまますべて奪い去って、永遠に二人でいたいと願ってしまわないか。僕には確信が持てなかった。でも、それが出来る今なら、分かるよ」
薄れていく靄に向かって笑いかける。
拠り所を無くした彼は、もうとどまってはいられない。
彼や私のような存在は、神秘の薄れた今の時代にはそぐわない。
それが当然として、理によって淘汰されていく。
「僕はなまえを手放せる。世界の中にこそいてほしいと、そう願っている」
私は存在することを許されない世界だけれど。
「もう二度と、なまえを失いたくはない。だから――会いに行くよ。世界にいるなまえに」
――世界の滅びを前にした、今なら。
いや、既に滅んだ世界の中でなら、私はなまえの隣に並び立つことが許される。
「さよなら。僕に似ているようで、まるで似ていなかったキミ。もう誰かに彼女の心を盗まれるなんてまっぴらだから――傍に、いるよ。誰もなまえの心に付け込めないように。僕がすべてもらっておく」
言い訳だ――と、誰かが言った気がした。
にんまりと口角を上げると、「大義名分は僕のような存在にこそ必要だ」と付け足す。
「ホント、夢魔が恋なんてするものじゃないね。何をどうしたって悪影響しか及ぼさない。なまえが僕を好いていて良かったよ。じゃなければこんな感情は、悪夢でしかなかった」
なまえに好かれさえしなければ、こんなことにはならなかった……などと思ったりもしたけれど。
今となっては、それも分からないな。
私以外の気配が完全に途絶え、カルデアそのものであった空間もまた、滲んで消えていく。
やがて世界は闇に染まり、何もかもが消え去った。
空っぽの夢を抜け、彼女の待つ庭を目指し、私は歩き出す。終焉のときは近い。
恋しい彼女の元へ戻ったとき、僕は僕の夢を、永遠に失うことになる。