何をして遊ぼうか
静かな夜だった。
聖夜と呼ばれるに相応しいのは、本来こういった静けさだろう。
その日、サーヴァントたちの退去を済ませたなまえを連れて温室へとやってきた私は、黙りこくる彼女の手を引いて歩いていた。
「やぁ、何だかもう既に懐かしいね。キミと初めてここを訪れたときのこと、覚えているかい」
俯くなまえに、普段通りの穏やかさを纏って問いかけると、なまえは顔を上げないまま、こくりと小さく頷いた。
「黙って勝手に入ったのがバレて、後で怒られたんだよね。……マーリンは逃げてどっかに行っちゃってたけど」
「おっと、そうだったのかい?そいつは知らなかったな。ごめんよ。逃げたつもりは無かったんだけどね」
「白々しい」
ふ、と笑みを漏らしながらなまえが答える。思ったよりも明るい声音だった。
「ねぇ、あのときから気づいてた?」
「……何を?」
「私がマーリンを好きなこと」
「……さて、どうだったかな」
気づいていた。
徐々に色づいていく感情が何ともむず痒くて、それを面白がってもいた。
胸の奥をくすぐられるような密やかなその色が、熱した針の如く突き刺さるようになったのは、いつ頃からだったろうか。
表層を撫でるその色が心地よくて、もっと深くを求めたのは私の方だ。
そうしてなまえを堕とした後で、それがとんでもない間違いだったと気づいてしまった。
やってしまった、そんな風に思ったのを覚えている。
こんなことを言ったらきっとなまえは怒るだろうし、悲しむだろう。
人の恋心というものが好きだ。
私はキミという人間に珍しく興味を持った。
だからその恋心を知りたくて、相手が私だったのは単なる偶然で、別に他の誰でも良かったのだ、私は。
けれどなまえの私を思う感情は、私の予想を遥かに超えて燃え上がり、その熱は私を苛んだ。
――それでも、その熱に焼かれるのは、心地よかったのも間違いない。
「気づいてたくせに」
恨めし気に呟かれた台詞に、曖昧に笑み返す。
傍にいた時間は一年ほどだが、その割になまえは私の習性をよく理解していた。
適当な嘘や上っ面の慰めは、彼女を余計に苦しめるだけだと分かっていたから、取り繕うことはしなかった。
なまえに傷ついてほしくなかった。
傷ついてほしくないのだと気づいたのが、傷つけた後だったのが我ながら間抜けな話だ。
思えばなまえ相手には、失敗ばかり繰り返している。
だからこそ余計に、私が傍にいるのは良くないとますます実感してしまう。
「今日でおしまいかぁ」
存外軽くなまえが言った。
私も応えて「そうだねぇ」と軽く返す。なまえは顔を俯けたままで、その表情は未だ見えない。
「マーリンは、楽しかった?」
「それは、勿論。……キミは?」
「楽しかったよ、とっても」
楽しかった思い出を語るには、その声は少しばかり沈んで聞こえた。
繋いだ手に力が込められたのが分かって、そっとその小さな手を握り返す。
もうすっかり馴染んだ感触は、それでもいつだって心地よかった。
なまえの髪に、頬に、肩に、胸に、背中に、手に、脚に、唇に――すべてに。
触れれば触れるほど、もっと、と、そう思わずにはいられなくて、それは私にとって不思議な衝動だった。
――その衝動が、いつか彼女を食い破るのが恐ろしかったのだと、今は思う。
私には、そうしてしまえる力があったから。
小さな手を引いて、人工の森を抜ける。
別れには触れないまま、他愛ない会話をぽつぽつと交わして、二人で最後のデートを楽しんだ。
経路が終わりに近づくにつれ、なまえの足取りは重く、口数は少なくなっていく。
決してその悲しみを口にはしなかったけれど、私は何せ夢魔だから、その色をひしひしと感じていた。
温室を抜け、なまえの部屋へと送り届ける道すがらも、他愛ない話を続ける。
部屋の前までたどり着くと、私はそっとその手を放した。
なまえは押し黙って私の胸のあたりをじっと見つめたまま、一向に中へ入ろうとしない。
私も、何も言わず彼女を見つめる。
「……、マーリン」
「うん」
か細く名を囁かれ、頷いて返す。
ようやっと顔を上げたなまえは、涙を目の端にためて、何かを堪えるように唇を噛んでいた。
「あっ、さ、まで、いっしょに、いたい」
「……困った子だな」
苦笑してそう言ったら、なまえの顔が歪んで涙が零れ落ちそうになる。
それでもそれを堪えて、「だめ?」と小さな声で私に問うた。
「……――良いよ」
言うと、私はそのまま部屋の扉を勝手に開けて、先に中へと入る。
慌てて振り向いたなまえが続いて入室すると、部屋の扉は無機質な音を立てて自動的に閉じた。
勝手知ったる部屋の中で、私となまえ、二人きり。
サーヴァントたちがいなくなり、いつにもまして静まり返ったカルデアの中でも、その部屋の中はいつも通りだった。
なまえはまだ帰る準備をしていないらしい。ベッド周りに置かれた小物や、机の上に積まれた書物や端末は、いつもと変わらない様子でそこにあった。
私が贈ったマペットも。
こつり、音を立ててベッドへと近づき、枕もとの壁の窪みに置かれていたマペットを手に取る。
なまえは私の背後でそれを見ているだけで、身じろぎ一つ出来ないでいるようだった。
この先、ここにあるすべてが失われるのだとなまえは知らない。
先刻歩いた温室も、いつかいた誰かの部屋も、思いのこもった贈り物も、全部。
覚えていてほしいと言ったのは私の方だ。
今でもそう思っている。
それでも、失われる物はある。
このマペットは、なまえの旅路に必要の無いものだ。
どうして教えてくれなかったのかと、なまえは私を恨むだろうか。その恨みが、私を記憶に留めおいてくれるのなら、それはそれでありがたいのだけど。
でもやっぱり、なまえには恨みなど抱えてほしくはないな。
ほんのちょっぴりの後悔で、私を頭の隅に置いてくれたなら。
「……それ、大事にするよ」
沈黙に耐えられなかったのか、なまえがそっと手元を覗き込みながら言った。
マペットをそのまま手渡すと、戸惑いながら受け取ってみせる。
「そうだね。大事にするといい。キミは案外寂しがりだからね」
そしてそれは、無くしてしまう物だから。
そんな言葉の裏はおくびにも出さず、笑ってそう言うと、なまえも軽口を返した。
「とか言って、マーリンが忘れてほしくないだけなんでしょ」
「――。そうだよ」
「――」
私の答えに、軽口はすぐ閉ざされてしまった。
「ねぇ。マイロード」
「……もう、ロードじゃない」
「まだキミの手に令呪はあるよ」
「いつ消えるの、これ。消えないうちは傍にいてくれる?」
ぎゅうとマペットを握り締めて、なまえは震える声で私に問うた。
それには答えず、すっと令呪を自らの手で包むと、もう片手でなまえの腰を引き寄せる。
「いつだって、私はキミを見ているよ。今の一番の楽しみは、なまえの行く末を見届けることだ」
「勝手なことばっかり言って」
「どうしてこんな勝手な男が好きなんだい?」
「……、どうしてだろう……」
小さく呟かれた言葉に苦笑する。
人間の心理をいくら学んでも、私には恋に落ちる理由を明文化することは出来なかった。
当人にも分からないものを、まして夢魔の私に理解出来る筈も無い。
だけどなまえの心に恋の鍵を投げたのは私自身だ。
その鍵で誰の扉を開けてくれても私は良かった。
心に落としたその鍵を、彼女はしっかり拾い上げ、そして―結局、
扉の向こうは、昏い海の底だというのに。
「私、自信無いよ」
「なにが?」
「……〝美しい結末〟ってやつ」
「自由に生きてくれればそれでいいよ」
「そう言われると、わがままを言いたくなる」
「そいつは困るな」
キミにわがままを言われると、聞いてあげたくなってしまうから。
どうしてかな、なまえのわがままはいつも魅力的な提案に思えてしまう。
そう言うなら叶えてあげようと言ってしまいたくなる。
けれどそのわがままの行く末には、私がなまえを搾取して終わる空っぽの未来が待っている。
なまえを私が手に入れて、私をなまえが手にしても、その先にあるのは緩やかな停滞と喪失だ。
なまえが人として生きて死ぬには、私の手を離さねばならない。
そして――それを私も願うなら、私もなまえの手を、離さなければならない。
「キミにはもう、私は必要無い。……そしてやっぱり、私にもキミは必要が無い」
「……ひつよう、ない」
「うん。要らない。キミがいても、私には何の益も無い。なまえのこれからにも私は必要が無い」
「私の、これから」
「キミはもう、一人で立って歩けるから。キミの強さを私はよく知っている。そんな強さを美しいと思ったから、私はキミのサーヴァントになったんだ」
「……ずる、いよ……そんなふうに言われたら、弱み、見せられなくなる」
「キミには強くあってもらいたいもの」
「……ほんと、い、じわ……、る……っ」
ぼろり。
ついに堪えきれない涙がなまえの瞳から零れ落ち、その丸い頬を伝っていく。
「っご、めん」
「どうして謝るんだい」
「……、こういうの、嫌いかなって思ったから」
「こういうの?」
「かなしんで、おわかれするの」
はて。もしやなまえは私が言った「悲しい別れとか大嫌い」という言葉を律義に覚えていたのだろうか。
その言葉は嘘では無いし、特に私はなまえの泣き顔を苦手に思っていたから、その認識は正しい。だけどキミが泣いてしまったのも、悲しんでいるのも、元はと言えば私が対応を間違えたことが原因だから、謝る必要なんて無いのだけど。
「悲しませてごめんよ」
「……ねぇ、マーリン」
「うん?」
「悲しいのはね、私がマーリンを好きだから」
「……うん」
分かりきったことをなまえは口にして、私が頷くと泣きながら小さく笑った。
「今も、胸が千切れそうって、思う」
「……」
「みんなみんな、だいすきだった、けど、きっと迷惑でしかなくても、それでも縋ってしまうのは、マーリンだけ」
小さく笑みを浮かべながら、なおもなまえの瞳からは涙が零れ落ちていく。
「要らないって言われても……心だって、そもそも無いんだって言われても……欲しがるの、やめられないの」
なまえの心の中で想いが溢れ、熱となって私の内部を浸食していく。
グラグラと足元がおぼつかないような感覚がして、思わずその腰を更に引き寄せ身を預けた。
「すき」
「……うん。知ってる」
「まー、りんも、けっこう、私のこと、好きだと思うよ」
「なまえには負ける」
「うれしくないな」
ふふふ、と耳元で苦笑され、私も苦笑を漏らした。
好きになった方が負けという言葉があるけど、多分なまえもそう思っているのだろう。
私としては、好きになられたことが負けのような気分だけど。
「――あのね、マーリン」
そっと胸を押し返され、顔を離すとなまえを見下ろす。
まだ潤んだ目をしたまま、なまえはしっかりと私を見据えて、悲しみに染まった顔をくしゃりと歪めると、泣き笑いのような顔で言った。
「好きになってもらえなかったことも、このまま離れてしまうのも、……い、要らないって、言われたのも、ぜんぶぜんぶ、悲しい。好きになってほしかった。でも、それでもね」
ぽろり、ぽろり。雫が頬を伝い落ちる。
「マーリンを好きになって、よかった」
――強く。
震えながらも、はっきりとした声で、なまえはそう言った。
「マーリンを好きになれて、幸せ。私と一緒にいてくれてありがとう、マーリン」
口端を引き上げて笑顔の形を作りながら、なまえはそう言った。
直後にその笑顔は再び崩れて、俯いた彼女の足元に雫が一つ、二つと落ちていく。
「――」
再びなまえを抱き寄せると、その小さな身体が浮くほど強く抱き締める。
一度目に、別れに際して言われたキミの「ありがとう」は、喜ばしいものだった。
少し寂しそうではあったけれど、キミは確かな充足感と達成感をもって、私はそんなキミが眩しくて。
こんな別れがあるのなら、再び会いに行くのもいいかもしれないと、そう思ったのだったか。
二度目のありがとうは。
かつて私の胸を刺したそれとはまた違う痛みを私にもたらした。
灼けるように熱い。痛い。
……なまえはアルトリアとは何もかも違う。
あんなふうに美しい心の持ち主では無いし、欲張りでわがままで、手のかかるマスターだった。
普通の女の子だ。
普通の女の子なのに。
――最後になまえは、私にもう一度「帰らないで」と伝えるのだろうと、そう思っていた。
もし再びそう言われたら、私はなまえを手放すことができるのか、自分でも分からないまま、共に朝まで過ごすことを選んだ。
それでも彼女は、それを口にはしなかった。
自ら指を離せなくとも、離しても平気なのだと、私が言ったように一人で立ってみせるからと。
未来に怯えていたくせに、そう言ってみせたのだった。
ああ、やっぱり。キミは強い。
私など、キミには必要無い。
キミは欲張りでわがままで、手のかかる女の子だったけれど――確かに強い、「人間」だった。
◆
「わっ。どうしたの、マーリン」
「何でも。抱き締めたくなっただけだよ」
気ままに花園を歩む彼女を背後から抱き締める。
きょとんとして問われた言葉に適当に返事をすると、彼女はふうんと言いながら首を傾げた。
一向に火の灯らないその心は、散ることを知らない花のよう。まさにこの場所に相応しいと言える。
「どう在っても、キミは美しいね」
「?ありがとう。マーリンもかっこいいよ」
「はは、ありがとう」
すり、と頬を摺り寄せると、彼女がくすぐったそうに身をよじる。
「へんなマーリン。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
いつものように夢の中を彷徨い歩き、また彼女の元に帰る。
ただ当然の反応として、彼女は私に「いってらっしゃい」と「おかえり」を毎回告げた。
記憶や人格を失ったと言っても、人格形成以前の経験に基づく記録は、その影にも刻まれている。
だからこうして、戯れに彼女の殻に人型を与え、ごっこ遊びに興じているのだ。
抱き締めた腕を解いて彼女の身体をこちらへと向ける。
抵抗なくこちらを向いた彼女の姿をしげしげと眺めて、やはりその姿を美しいと感じた。
キミの姿が好きだ。
美しい女性は好きだけど、そういうのとはまた違う。
私はただ、キミのありのままを美しいと感じる。
恋をするとすべてが好きになる、というのはこういうことなのだろうか。
いいや、私は最初、なまえの姿に恋をしたのだったか。
もしかしたらなまえが私に恋をするより前に、私はもうその姿に恋をしていたのかな。
きょとんとして私を見上げる彼女の面差しは幼く、その無垢な美しさは今までに無いものだった。
やっぱり、キミはどうなっても美しい。
真っ直ぐに見つめてくる瞳を見つめ返していると、ふと思いついた。
右手でくるりと円を描いてみせると、咲き誇る花々がふわふわと舞い、私の腕の周りでするすると編み込まれていく。
「美しいキミに、僕からの贈り物だ」
「あ!はなかんむり!」
編まれた花冠を頭へ被せると、彼女は満面の笑みで喜んでくれた。
そのままくるくると舞うように回ってみせると、「にあう?」と楽しそうに笑んで尋ねてくる。
「似合うよ。キミの為に咲いた花だもの、似合わない道理は無いね」
「ふふふっ、ありがとう」
大輪の花が開くように、彼女は笑ってみせた。
月並みだが、花の精のようだと素直に思った。
「あのね、ちょうどよかった」
「うん?」
「ちょっとまってて」
軽やかな足取りで大樹の下へと駆けて行った彼女が、何かを持って戻ってくる。
「これっ、マーリンにあげる。いっぱいつくって、これがいちばんよくできたやつなの」
「良いのかい?」
「いいよ、まだあるから」
はい、と差し出されたそれは、シロツメクサの花で編まれた冠だった。
ここには様々な花が咲いているのだけど、何故か彼女は最初、冠を作るのにその花ばかり探していた。
きっと彼女の中に「花冠はシロツメクサで編まれるもの」という認識があったのだろう。
編み方は覚えていなかったけれど、私が教えたら面白がってたくさん作り出して、今では別の花も使ってたくさんの花冠や指輪を作って遊んでいる。
「僕にくれるのかい」
「うん。ほんとはもっといろんなお花をつかったやつをあげたかったんだけど、みくらべたらやっぱりこれがいちばんよかったから」
花冠を掲げる彼女に、頭を下げるとその冠を被せられる。
どう?と問うように首を傾げると、彼女は嬉しそうににこにこと笑って頷いた。
「にあう!かわいい!」
「えぇ、かわいい?まぁ僕は確かに可愛い方だと思うけど」
「お花の妖精さんってかんじ」
「それじゃお揃いだね。僕もキミにそう思った」
「そうなの?ふふふ、またおそろいだ」
なおも彼女は嬉し気に笑う。
うん、キミには花がよく似合う。
美しいものには美しいものを。
ここにあるすべては彼女のもの。
「花の精なら、こういうのも良いかな」
「ん?」
咄嗟に思いついて、咲き誇る花々に意識を向ける。
ふわふわと彼女の周りの花が浮いて、その髪や腕や腰を彩っていく。
白一色だったワンピースに花の鮮やかな色彩が映えて、彼女を美しく彩った。
「あははっ、なにこれ、すごい!」
「とてもよく似合っているよ」
「えへへ、ありがとう」
ひらひらとワンピースの裾を揺らしながら、彼女が私に礼を言う。
ひらりと花びらが舞って、一瞬の美しさを切り取った絵画のように目に焼き付いた。
まるで最初から、花々が彼女の一部だったかのようだ。
「マーリンはなんでもできるんだね、すごい」
花弁が舞う様を気に入ったのか、なおもスカートの裾を翻しながら彼女が言う。
「僕が何でも出来るんじゃ無いさ。ここでなら、キミはどんな願いも叶えることが出来るのさ」
「どんな、願いも?」
私の言葉に、裾を揺らすのをやめて彼女が顔を上げる。
頷くと私は言葉を続けた。
「そう。ここはキミの世界だ。何もかもキミの思うままになる」
「ほんとに?なんでもかなうの?」
「キミが本気でそれを願うなら、必ず」
なんでも、と彼女がもう一度小さく呟く。
何か叶えたい願いがあるのだろうか。
こんな場所にずっといて、一体どんな欲があるというのか、これは私の悪い癖だと自覚しているのだけど、気になって促すように囁いた。
「願いがあるなら、言ってごらん」
彼女は真っ直ぐに私の目を見つめると、至極真面目な顔をして、その愛らしい唇を開いた。
「――マーリンとずっといっしょにいたい」
呟かれた言葉に、私は一瞬動揺した。
「…………、ずっと一緒にいるじゃないか」
「ずっとじゃないよ」
微笑んで返すと、口を尖らせて言い返される。
「だってマーリン、さっきだってどっかいってたじゃない。それもやめて、ずーっとここでわたしとすごすの。ねぇ、かなう?」
「……ごめんね。それだけは叶えてあげられない」
「えぇ、そんなぁ」
しょんぼりと眉尻を下げて彼女が言った。
「じゃあせめて、わたしもつれていってよ」
「それも、ダメ。この世界でキミが自由にできるものは、僕以外のすべてだよ。僕だけは、キミの自由にはならない」
「……それって、マーリンはこの世界のひとじゃないってこと?」
悲し気に眉を下げたまま、彼女は首を傾げて言った。
「……うん、そうだね。僕はキミの世界にずっとはいられないんだ」
「え……」
「でも大丈夫、ちゃんといつも帰ってきているだろう?僕があちこち出かけるのもキミの為さ。最後には必ずここに戻って……そして……キミと、同じ時間を過ごすから」
屈んで目線を合わせると、安心させるように微笑んで言う。
「約束だよ」
「やくそく」
「そう。約束」
ね、と諭すように言っても、その顔は晴れない。
……まいったな。
こんなことで彼女を曇らせてしまうなんて。
ここには私が用意した空間以外には何も存在しない。
そして彼女は私とこの花園以外何一つ知らない。
だからここには何の悲哀も存在しない、そう思っていたのに、彼女は「私の不在」を幾度も経験して、寂しさを覚えてしまったらしい。
好きな人とは一緒にいたいと彼女は言った。
私もそれはきっと同じで、彼女の傍にいたくてこの場所を用意した。
ヒトの世界は美しいが、関われば関わるほど、その世界に入れない疎外感を強く意識させられる。
でも今の彼女は人間性を持たない。
ヒトの世に在ることはもう出来ない。
水面に石を投げ入れて、波打つ波紋を眺め喜んでいるだけの存在が私だ。
でも今、彼女の中身は空っぽで、投げ入れた石はただ落ちていくだけ。
単純に自分といてくれる唯一の存在である私を失いたくないだけなのだ。
例えばあの樹を失っても、この子はきっと嘆いたろう。
だってこの世界には、私と彼女と、花とあの樹しか無いのだもの。
ふと俯いた彼女に視線を落とすと、その頭に被せた花冠が目に入る。
「――そうか。そうだった。だから誓いというものはあるんだ」
「ちかい?」
問いには答えずその場に跪くと、そっと彼女の左手を取って見上げる。
きょとんとした様子に笑いかけると、手の甲に口付けて静かに口を開いた。
「良きときも、悪しきときも。
病めるときも、健やかなるときも。
富めるときも、貧しきときも。
キミを守り、敬い、慈しみ、
キミの元へ帰ることを、キミに誓おう」
「……」
ぱちくりと目を瞬かせながら、彼女は黙って私を見下ろしたまま口を開かない。
今の彼女には理解出来なかったのだろうか、そう思いもう一度口を開こうとした瞬間、
「うれしい」
そう言って、彼女は笑った。
花のつぼみがほころぶような、柔らかで可憐な笑みだった。
「――信じてくれた?」
「うん」
頷くと、彼女もまたその場に跪き、私の両手を握るとそこに唇を押し当てた。
「――あのね、わたしもちかうよ。ずっとマーリンといっしょにいる。ちゃんとまってるから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って微笑んだ彼女の笑顔が、きらきらと瞬いて見えた。
なんて眩しいんだろうか。
誓いの言葉に安心したらしい彼女は、先ほどまでの鬱いだ表情から一転してにこにこ笑いながら、自身の花冠に手をかけた。
そして私の花冠も無遠慮に外すと、自らが被っていた冠を私の頭に被せて機嫌良さそうに頷く。
「ちかいのしるしね!マーリンもこれ」
「なるほど」
跪き目を瞑って冠を待つ彼女に、恭しく掲げたシロツメクサの花冠を被せる。
色鮮やかな花も良いが、「いちばんきれい」というだけあって、その花もよく似合っている。
意識せず行ったのだろうけど、白いワンピースに花を纏い、冠を被るキミはまるで花嫁だ。
きっと私の誓いの言葉から、儀式として花冠の交換を無意識下で思い起こしたのだろう。
人の心というものは残酷なほど呆気なく変わってしまう。
その想いを補強するものが、たとえば言葉であったり、儀式であったりする。
私に言わせればそんなものは気休めだ。
どんなに真剣に愛し合った者たちでも、何かがきっかけで、いいや、何のきっかけなど無くとも、その熱を無くしてしまうもの。
人々にとって、「愛」は行動の結果にしか現れ得ない。
失われた熱を知るのは私のような者だけで、人間たちは言葉や行動でしか己の心を伝えられないし、また、言動を偽られてしまえば、その心を知ることも出来ない。
そんな不確かなものを彼女は欲しがった。
今のこの子に至っては、疑うことを知らない。
私が他者から好かれたいのは、その方が都合がいいから。
恋や愛を語るのは、それが面白い絵を描き出すから。
だから彼女に好かれるのは楽しくて、――だけどとても、都合が悪かった。
彼女に好かれても、傍に置いても、私には何一つ益が無い。
美しいものを眺めるだけなら私はどこからでも可能だったし、彼女をより美しく導く役は、もう終えたと言っていい。
それなのに私は、ここで彼女とこうしている。
ただ彼女を守るだけなら、こんな世界は要らなかったのに。
彼女の殻を懐にしまい込んで、それこそ楽園に引きこもっていれば良かったのだ。
こうやって彼女の影と戯れる必要など無い。
それでも彼女の影と過ごすことを選んだ理由。
そんなものは、ただそうしたいと思ったから以外に無い。
ずっと一緒にいたい。
キミと二人、いつまでもこうして夢に揺蕩っていたい。
きっと私は、キミに恋をしている。
このままキミを閉じ込めたままでいれば、手放さずに済む。
今までの思い出も何もかもを捨てて、ただ「キミ」と共にあることだけを願うなら、このまま二人、ここで微睡んでいればいい。
ここでならキミは、
悪を知らず
汚濁を知らず
不浄を知らず
永遠に美しいまま、
純粋な少女でいられる。
きっともう二度と、泣くことも無いのだろう。
ああ、
「キミといると、幸せな夢ばかり見てしまうね」
「夢?」
「そう。夢。その代わり、こうしている限りキミが夢を見ることは出来ないけれど」
「そうなの?それってたのしいことなの?」
「キミはきっと楽しんでいたと思う。でも僕は、キミとこうしているのが楽しい」
「わたしもたのしいよー」
その場で摘んだ花を私の頭に挿し込みながら、彼女は何の感慨も無さそうに言葉を返した。
どうやらよく分からない私の言葉などより、私の髪を飾る方が重要らしい。
「……昔、とても美しいものを見たんだ」
「わたしのこと?」
「はは、キミも美しいけど、そうじゃなくて。これだけは、と思った美しい心があったのさ」
「それをどうしたの?」
「どうもしてないよ。僕が何をしなくても、彼女はどうやら救われて、僕はそれで満足だった」
「よかったね?」
「良かった。とても」
ぐさぐさと私の頭に花を飾る姿を見つめる。
「でも、キミとは遊んでいたいんだ」
「わたしもマーリンとあそぶのすき!」
満面の笑みで返された言葉に微笑んで返す。
必要だからそうするのでは無く、ただ誰かと関わっていたいと思ったのは、キミが初めてだった。
「キミとしたいことがたくさんある。見たい景色も。だから……頑張るよ」
「頑張らなくても、ここで出来ることしたらいいのに」
「うん。確かに。ここにキミと二人でいると、僕は結構満たされるみたいだ。でも」
――それでも、そうして悲しみを知らないキミを私だけのものにするよりも。
なまえの輝ける未来が、どうしても欲しい。
――それは、世界という絵に描かれた紋様の、特別目立った箇所にたまたま有るだけの砂粒でしか無かった。
たまたまそこにあって、たまたま重要な絵を構成する要素となったそれを、私は興味本位で磨こうと考えた。
より自分好みの絵にする為に。
そのときまで、彼女は確かに粒でしかなかったのだ。
傍でなまえという粒を磨いていくうちに、それは宝石のような輝きを放つようになった。
世界という絵の中で、彼女は欠けてはいけない要素となった。
なまえがいるから、世界はもっと美しい。
きらきらと眩しくて、私はただ、無邪気に喜んだ。
――それが辛くなったのはいつからなのか。
なまえが私に惚れていると気づいたときか。
分からない。覚えていない。
浸食する感覚に、私はまるで気づけなかった。
なまえが幸福でいる世界が、私にとって最も美しい。
だけど私がいる世界では、なまえは幸福でいられない。
触れていたい、なんて、知らない感情だった。
世界が美しくある為に必要な粒であったなまえを、私はいつしか、それ自体が美しいと感じるようになっていた。
この花園は、私の望みを叶えた世界だ。
彼女を手の中に納めて愛でるのは、甘美なひとときだった。いつまでもこうして夢の中を揺蕩っていたい。
彼女はもう泣かないで済むし、ただその愛らしさを振りまいていればいい。
ああ、私はこの子が欲しい。
この宝石を手に入れたい。
懐にしまい込んで、時折取り出してはそっと眺めて、その美しさを、好きなときに好きなように、感じていたい。
……いや。
私は、この宝石を手に入れることができる。
そして彼女もまた――そうなることを、望んでいた。
「それでも。キミが一番美しいのは、世界という額縁に飾られている瞬間だ」
宝石にも、それをはめ込む土台がいる。
私は彼女という宝石に美しいカットを施せても、その輝きを飾るものになることはできない。
それではダメだ。そんなのは――もったいない。
「マーリンはときどきよくわからないことをいうね」
「褒めているんだよ。キミは僕にとって素晴らしい宝石だって」
「
「そう、そしてキミは僕にとって花でもある。いずれにせよ美しいという意味だよ」
そう言うと彼女は、はにかむように微笑んだ。
その顔は美しいというより愛らしい。
そんな笑みを見せられると、やはり手放しがたく思う。
いつまででもここで、こうしていたいと思ってしまう。
「キミって案外魔性だよね」
「……それ、ほめてないでしょ」
「褒めてるよ、僕はキミにまいってるってこと」
「マーリンに勝ったってこと?」
「そうだね。負けたよ」
やったぁ、と彼女は無邪気に喜んだ。
キミは知らないだろうけど、本当のところ、私はキミに負け通しなんだけどね。
「そうだ、つぎはしょーぶしてあそぼ」
「ゲームかい?それともかけっことか、鬼ごっことか?」
「えぇっとねぇ」
楽しそうに何をしようか考える姿を見つめ思う。
僕は、今とても幸せだ。
一度その手を離した筈だった。
なのに今、彼女は私の手の内にある。
「ぅ、おぁっ!?」
強引に引き寄せ抱き締めると、驚いて彼女が声を上げた。
何するの、という非難を無視して更に強く抱き締める。柔らかくてとても心地がいい。
「マーリン?これなんのあそび?」
「そうだね。ごっこ遊びかな」
「なにごっこ?」
恋愛ごっこ、――とは言わず、そのまま体重をかけて彼女を押し倒す。
「わっ。おもーい」
「ふふ」
襟足をかき分け、その首筋に口付ける。私の下できゃらきゃらと笑う声が心地よく耳に響いた。
「あははっ、くすぐった、ふふっ」
「かわいい」
「んふふ」
ちゅ、と耳に口付けると、ぴくりと彼女の身体が震える。
楽しそうに笑う姿が愛らしくて、多分、愛しくて。
恋しくなった。大好きだったなまえが。
「……」
「?マーリン?」
私が触れると、なまえは顔を真っ赤にして、その心臓をどくどくと脈打たせていた。
潤んだ瞳が私を見上げ、切なさに身体を震わせて、その心の熱は私を欲して、まるで叫んでいるかのようだった。
怪訝に私を見つめるその頬を撫でる。
丸く柔らかな感触があまりに心地いいから、無意識にいつも触れてしまう。
何も答えない私に、彼女も私の頬に触れた。
私が何のつもりか分からないから、真似してみたのだろうか。
私に触れられて笑うキミが好きだ。
私に触れられて震えるなまえが好きだった。
――私のいない場所で、輝くなまえが、大好きだ。
やっぱりどうしても拭えない。
なまえとなまえの世界は、共に在ってこそだ。
心を、世界を、彼女は取り戻すべきなんだ。
「マーリン、どうしたの」
「何でも。何でも無いよ。キミは触り心地がいいなと思っただけさ」
「そうかな」
「そうとも」
私の頬から手を離し、ぺたぺたと自身の頬に彼女が触れる。首を傾げると「マーリンのほっぺも柔らかいよ」と微笑まれ、私も微笑を返した。
――手放さなくては。
どんなに心地がよくても、それだけだ。
その為だけに、彼女を犠牲にすることは出来ない。
世界は美しいから。
キミのいる世界が、一番美しいから。
キミという花を、地上に美しく咲かせよう。
キミという宝石が輝ける世界を、用意しよう。
キミという絵がどれだけ素晴らしいかを、皆に気づかせよう。
キミが幸福に生きられる世界――
それこそが、私がキミへ贈るもの。
いいや、キミがキミの手で勝ち取るものだ。
私はそれを、ただ眺めていられればいい。
美しいものが見たい。
私の動機はいつだってそれだけだ。
だからやっぱり、キミは、要らない。
要らないんだ。私には。