一章 ゼロから始める育児生活

理解が追いつかないという表情でこちらを見つめるロマンを私もどうして良いか分からないまま見つめ返す。
腕の中の存在へとロマンの目がゆっくりと落ちて行き、再度その目が私へと向けられる。

「ええと、この、赤ん坊は」
「マーリンの部屋に入ったら、この子がいて」

ぱっちりと開かれた瞳はすみれ色をしていて、乳児と呼んで差し支えないと思われるのにその頭からは真白い髪がふさふさと生えている。
じっとこちらを見つめる面立ちは聡明そうで、赤子のくせに赤子らしくない。

えっと、それで、この子は、マーリンの、何だろう。

「か、か、隠し子、かな」

思わず声が震えてしまったが、ロマンが慌てて首を横に振った。
いつもならロマンがマーリンを疑って、私が擁護する方なのに、さしもの事態に二人とも普段の我を見失っているようだ、などと混乱する頭の奥底で考える。

私とマーリンは、恋人同士だ。そして一緒に暮らしている。
そんなに長く一緒にいるわけでは無いけれど、もうこの暮らしにはすっかり慣れてしまっていて。

いつもなら私が起きて行動し始める頃には、既に準備ばっちりで寛いでいる筈のマーリンが一向に起き出して来ないから、不思議に思って彼の部屋を訪ねたのが数分前。
返事が無いのを訝しんで、悪いと思いつつ勝手に入室してみれば、ベッドの上にこの子がいたのだった。

この、どう見てもマーリンにそっくりな、赤子が。

「……マーリンの子、にしか……見えない……よね……?」

泣きそうになるのを必死に堪えながら、ひくつく表情筋を叱咤してへらへらと笑ってみる。
ロマンが再び、今度は勢いよくぶんぶんと首を横に振った。

「確かにそっくりだけど!というか、これ、多分本人だから!」
「……ほんにん……?」

ぷるぷると泣くのを堪える私にロマンが焦って妙なことを言い出した……と思ったのだが、ロマンは至極真面目な顔でこくりと頷いた。
え?マジで言ってる?

「どうなっているのか原因と理由は分からないけど、多分この子はマーリン本人……だと思う」
「ええと……つまり、若返ったってこと……?」
「……まぁ……そう、なのかな……」

…………?………………??

いや普通、こういうの幼児化じゃない?乳児化とかある?

……などと一瞬よぎったが、普通の人間はそもそも幼児化もしない。ダメだまだ混乱している。

あ、でも、マーリンはそういえば、ただの人間じゃないのだった。

「えっと。魔術師って、ときに乳児化するものなの?」
「……そ、そうだね。そういうことも無くは……な、無いよ」

無いのか……そうか……。私には魔術のことはさっぱりだが、時計塔にいたロマンが言うならそうなんだろう、きっと。
歯切れが悪いのが気になりはするけど、それを追及したところで事態は何も変わらない。

とりあえず、この子が真にマーリンだと言うのなら、そのつもりで接しよう。

……。

……乳児のマーリンにどう接すれば?



時々身動ぎする以外は泣きも喚きもしない乳児のマーリンをロマンのベッドに寝かせる。
赤子用の服など持ち得ないので、とりあえず私のTシャツを着せておいた。
私とロマンはというと、向かい合う形で間に挟んだマーリンを見下ろしている。

「ねぇ……ロマンは子育ての経験は……?」
「えーと……世話したりはしたこと無いっていうか……」

だよね。いや私とロマンが共に暮らし始めてもう十年なのだし、ロマンに子育ての経験など無いだろうことは察しがつく。
というか私というコブが付いていたからロマンにそんな経験が無いまま十年も経ってしまったのかなと一瞬思ってしまったが、今はそれどころじゃないのでロマンの婚活についてはまたの議題ということで。

今はそれよりパパ活である。
ん?パパ活だと意味が違うか。まぁいいや。

「と、とりあえず、ミルク買ってこなきゃかな」
「うん……三ヶ月くらい、かな……?まだまだミルクの時期だと思う……」

ロマンの見立てに従ってスマホで少し検索してみたけど、確かに母乳やミルクの時期のようだ。

「でもマーリンて花の蜜とか吸ってそうだよね」
「え!?」
「……そんな驚かなくても。ほら全然ぐずりもしないし、この髪と目の色のせいで、何かほんと妖精みたいだな~って」
「そ、そうだね……人間に見えないよね……」

何故かもごもごと口ごもるロマンを不思議に思いながらも、赤子のマーリンから目が離せない。
ほぅと息を吐くと、マーリンの頬を指先でそっとつついてみた。

「……かわいい」
「普段からこう大人しいと良いんだけどね……」
「ほんと……全然ぐずったりしないし、すっごくいい子だね……お腹空いてないのかな?」
「あー」
「あ!喋った!」

「ヒッ」
今まで無言だったマーリンが口を開く。すると何故かロマンが飛び上がって驚いた。
……実は子供苦手なのかな?いや、私も流石に乳児は小さすぎてどうしていいか分からないけど……。

「よしよし今ミルク買ってきてあげるからね~」
「あ、う」
「ンンッ、かわいい~っ!」
「……」

何か言いたげなロマンを無視して、マーリンをそっと抱き上げてみる。

ああ軽い、かわいい、いとおしい。

私とマーリンに子供がいたらこんな感じなのかな、とか考えてしまって、ちょっと気恥ずかしくなる。
そっと頬をすり寄せてみたら、まだ子供なのに、あの独特の花のような香りが鼻腔をくすぐった。



とりあえず購入したミルクを、説明の通りに作ってほ乳瓶に入れる。
そっとそれをマーリンの口元にあてがうと、戸惑う様子も無く口に含みくぴくぴと飲み始めた。かしこい。かわいい。

「もしやこの子天才なのでは……?」
「何でマーリン相手に親バカ発揮してるんだよ」

ロマンが冷静に突っ込む。
だってこうしてたら気分はもう母親みたいなもんだよ。母親の気分なんて知らないけど。

買い物中、たくさんミルクやおむつが必要なのではと買い込もうとする私を、いつ元に戻るか分からないからと最低限にするよう窘めたり、既にロマンは落ち着いて現状を分析しているらしい。
私は右も左も育児も魔術も分からないので、未だにテンパっているし焦ってもいる。

でも乳児のマーリンめっちゃくちゃかわいい。

「ロマン、写真撮って写真」
「は?写真?」
「初ミルクのマーリンの写真だよ!あっやっぱり動画……ううん両方かな!お願い!」
「いる?それ」
「いるでしょ!?何でいらないと思ったの!?」
「えぇ……」

ガチめに答えたらロマンが困惑の声をあげた。解せない。

渋々と言った体でロマンがスマホを取り出して撮影を開始してくれたので、マーリンに視線を戻す。
んくんくとミルクを飲むマーリン、マジかわいい。

「さっき出かけたときもっと画質のいいビデオカメラも買っておくべきだったね……」
「頼むから正気に戻っておくれ」

失礼なやつだな。私は正気だ。



「マーリンがげっぷをしないんだけど!」
「しないなら良いんじゃないかな平気そうだし」

ミルクを飲ませ終え、確か赤ちゃんはげっぷさせなきゃいけなかった筈!と意気込んで背中をトントンしてみたものの、一向にその気配が無く私は焦っていた。
対してロマンは暢気な顔でマーリンの手をぷにぷにしている。さっきまで何となく怯え気味だったくせにこの野郎。

マーリンを抱えながら何とかスマホをいじって検索する。
ええと、早くて三ヶ月ごろでしなくても良くなる……確かにそう書いてあるし、特に苦しそうでも無いけど。行儀良く私の腕の中に収まったまま、マーリンは相変わらず涼しげな顔をしている。

……というか、さっきから思ってたけどこの子あまりにも静かすぎない?
ミルクは飲んだし、手をにぎにぎしたら握り返したりはしているから、別に元気がないとかそういうわけではないと思うんだけど……乳児ってこんなもん?知識が無さすぎて分からない。

「……お母さんいなくて不安にならないのかな」
「マーリンだしね」

おざなりな返事にむぅと口を尖らせる私に、ロマンが苦笑して付け加える。

「現にこうして大人しくしているし、……まだ小さすぎて分からないのかもしれないよ。まぁ、心配すること無いよ、マーリンだし」

だからそのマーリンだから大丈夫というのはどういうアレなんだ。

「大人のマーリンならそうだけどさぁ……」

乳児だよ?一人じゃ何も出来ないのに。

そう思いながら腕の中のマーリンを見下ろせば、さっきまでぱっちりと開いていた目がうとうとと閉じかけていた。

「ありゃ、おねむかな?ロマン、さっき買ったベッドどこ?」
「これね、ちょっと待って」

ごそごそと足下に置かれた紙袋の中から箱型のクッションのようなものを取り出すと、ロマンがそれをベッドの上に設置する。

ベビーベッドを買うのはとりあえず様子見ということになってしまったので、こうして小さな簡易ベッドのようなものを代わりに購入しておいたのだ。
少々不安だが、ロマンにマーリンだから大丈夫と根拠不明ながらやけにはっきりと言われて、私も渋々納得した。
これなら傍で寝られるから、何かあってもすぐ対処出来て寧ろ良いかもと思ったのもある。

そっと赤子のマーリンを簡易ベッドに寝かせ、上からタオルケットを被せる。
特にぐずる様子もなく、マーリンは目を閉じて眠り始めた。

ロマンと二人、その様子をまじまじと覗き込んで、改めて現状を思い返す。

「ねぇ、ロマンは何でこの子がマーリンだってすぐ分かったの?」
「え!?」

びくりとロマンが肩を震わせる。
……さっきから思ってたけど、何でそんなに挙動不審なんだ。

「もしかして……」
「え、な、何だい」

じとりとロマンを見つめながら、露骨に狼狽えるロマンに私はずばり言い放った。

「前にもこんなマーリンを見たとか!」
「……あー、うん。実はそうなんだ、はは……」

苦笑いしながら頭をかくロマンに、やっぱりと私は納得する。
だからマーリンなら大丈夫だとか言ったんだね。なるほど合点が行った。

「でも何でそれ隠してたの?言ってくれたら話は早かったのに」
「いやぁその、なまえちゃん驚くだろうなって」
「マーリンが新生児になった時点で死ぬほど驚いてるよ」
「そうだよね、ごめんよ」

あははは、と空笑いを浮かべるロマンに首を傾げる。
うーん?やっぱりロマンもテンパってるのだろうか?
……あ、それか、もしや。そのときの状況が、あまり私の耳に入れたくないような状況だったのかもしれない。例えば女性関係とか。

……うん。詳しく聞くのはやめておこう……気にはなるけど。

マーリンに視線を戻すと、先ほど眠りに就いたと思ったのにうっすらと目を開けてこちらを見ていた。
眠たげなものの、ぱちぱちとまばたきを繰り返すだけで、眠りに落ちる気配が無い。

「あちゃあ、起こしちゃったかな……」

ベッドに腰掛けると、優しくマーリンの身体をぽんぽんと叩きながらそっと子守歌を口ずさむ。

何度か繰り返すうち、マーリンのまばたきの速度がだんだんと遅くなって、ついには眠り始めた。
念の為もう少しだけそれを繰り返すと、そぉっと手を離して口を閉ざす。
マーリンの瞼が閉じたまま動かないのを確認して、ほっと息を吐いた。

「……寝た?」
「寝たね……」

声をひそめてロマンと言葉を交わす。

「今日の家事ボクがやるから、マーリン見てて」
「えっ、いいの?」

声をひそめたまま問いかけると、ロマンはこくりと頷いて立ち上がった。そのまま扉へと向かう。

「色々あってなまえちゃんも疲れてるだろうし。何かあったらすぐ呼んでくれ」
「うん……ありがとう」

静かに退出するロマンを見届けると、自分もベッドに寝転び至近距離でマーリンを見つめる。

髪色とか目の色とか、確かにマーリンと同じなのに、こんなにもあどけない。
マーリンにもこんな時代があったんだなぁと、当たり前のことを思ってしまった。

「……面影あるなぁ……いや本人なんだから当たり前だけど」

一人でそっと呟いてみる。
目の形とかほんと、マーリンにそっくりだ。マーリンなんだから当たり前なんだけど、でもやっぱりこの子は赤ん坊で。

「……いつになったら戻るんだろ。……戻るよね?」

問いかけても、マーリンは答えない。
すやすやと眠るマーリンに苦笑を送ると、眠りの妨げにならないよう今度こそ口を閉ざした。

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