熱に浮かされて夢を見る 1
「ぁ…ッ」
ぐらり。
身体が揺れて視界が狭む。
何とか壁に手を付き倒れ込むのは阻止したが、尋常でない下腹部の痛みにズルズルとしゃがみ込むと床に伏して必死に深呼吸する。
突然の事だった。
いつものように起き出して支度を整えようと立ち上がり、重い身体を引きずるようにして部屋を出ようとしたなまえは、身体を襲う強烈な痛みに冒され床に蹲ったまま動けない。
この痛みはヤバい。ただの腹痛などではない。
まずはこの痛みから一刻も早く逃れたくて、痛み止めを求めてリビングへと移動する。
壁に手を付き立ち上がろうとするも、やはり力が入らず難しい。
仕方なく床を這いながら移動し、手すりの部分に差し掛かると漸く痛む身体にむち打って立ち上がることに成功した。
なまえの自室は二階、薬は一階である。
ぎゅっと手すりを握り込むと、そうっと階段を降り始める。
どうにかこうにか、リビングにたどり着きいつもの痛み止めを飲むと、はたと気付いて重いため息を吐く。
スマートホンを二階に置き去りにしたままであった。
この家には固定電話が無いので、あれが無ければどこにも連絡することが出来ない。
仕方なく再び二階へと移動し、自室のベッドに倒れ込む。
救急車を呼ぼうとスマートホンに手を伸ばし──
ふと、一人の顔が脳裏に浮かんだ。
この家に住み込む青年。名前はマーリン。
ある日突然目の前に現れたかと思うと求愛され、数日後には自分の後見人として家に住み着く事になっていた正体不明の男。
今現在は、何をしているのかは知らないが仕事だと行って出かけていた。
胡散臭くて軽薄で、とても信用に足るとは言い難い人物像なのに、彼を頼ろうとしている自分になまえは困惑する。
連絡先一覧のマーリンのページを表示しながら、呼ぶなら彼ではなく救急車であろう、と考え直して電話ツールを開き直した。
ポン
…その間抜けな音はメッセージアプリの通知音だった。
反射的にページを開くとマーリンからで、そこには簡潔にただ一言が記されていた。
「大丈夫?」
…普通ならどうして自分が苦しんでいるのに気付いているのか、ぞっとするところなのだが、マーリンのこういう部分は今に始まった事ではなく、すっかりと麻痺してしまっていたなまえはふっと息を漏らして少し笑った。
「お腹が痛い」
「帰ってきてほしい」
赤の他人であるマーリンを頼る事は出来ない。
そう考えていたのに、気付いたらそう返事を返していた。
「すぐ戻るよ。救急車はいる?」
「薬が効いてきてさっきよりは落ち着いたから、平気。後で病院に連れて行ってほしい」
「分かったよ。任せて。すぐに帰るから、いい子で待っていてね」
そのメッセージを見ると不思議と気が楽になって、なまえは目を閉じてマーリンの帰りを待ちわびた。
「…なまえ」
「ん…」
髪を撫でられる感覚に目を覚ます。
自分がいつの間にか寝入っていた事に気付いて二、三瞬きを繰り返すと、枕元で自分をのぞき込む人物を見上げた。
「…マーリン…お帰り…」
「…ただいま。具合はどう?」
「まだ…痛いけど…かなりマシになった…」
「そう…立てる?病院に行かなきゃ」
「大…丈夫」
寝ているうちに薬のおかげか痛みはだいぶ治まっていた。
とは言えやはり平時とは比べものにならないほど身体が重い。
マーリンは立ち上がるとなまえの着替えを持ち出して傍に置いた。
「着替えは手伝わなくて平気かな。キミが良ければそれもやるけれど」
「そ、そこまでしなくても大丈夫…。ありがとう」
恥ずかしげもなく下着まで用意され、普段なら怒るところだが今はただただ恐縮してしまう。
マーリンの声音はいつものような、からかうような響きではなく、ただ優しさに満ちていた。
「では私は近場の病院を調べてくるから、キミは着替えておいで。何かあったら無理せず私を呼ぶように」
「うん、ありがとうマーリン」
頭を一撫でするとマーリンは部屋を出ていった。
それを見届けると重い身体を引きずりながら服を着替える。
あんなにどうしていいか分からず怖かったのに、マーリンがいれば何も心配はいらないと思える。
一緒に住んでいるとは言え、赤の他人であるマーリンに負担をかけて申し訳ないとも思うのだが、それ以上に傍にいてくれる安心感にほっと息を吐いた。
自室で病院を検索しながら、マーリンは先刻の出来事を思い返していた。
マーリンは千里眼の持ち主である。
なまえがそんな事を知るはずも無く、それ故いつもマーリンに全て見透かされているのを知っては困惑していたが、強引に丸め込んで有耶無耶にしていた。
マーリンは常になまえを見ている。
何処にいて何をしていようと、ひとときも目を逸らす事はない。
最近体調があまり良くないらしいことには気付いていた。
だからマーリンも充分気をつけて見ていたつもりだったのだが…甘かった。あんな風に倒れるなんて。
なまえが倒れるのを見た瞬間、マーリンはその場から取って返した。
もしも彼女があのまま──などと想像し、ぞっと背中に駆け上がる恐怖感を飲み込んで駆けつけた。
自分の連絡先を見つめるなまえを視たとき、マーリンはたまらなくなって、つい「大丈夫?」と送ってしまった事を思い出し、苦笑を浮かべる。
下手をすれば、苦しんでいるなまえを怯えさせるかもしれなかったのに。軽率な事をしてしまった。
しかし、なまえの反応は予想に反して、自分に最大限甘えたものだった。
帰ってきてほしい。
その言葉にこみ上げてくるものがあった。
全くなまえは、自分の知らなかった感情を次から次へと呼び覚ましてくれる。
なまえが着替えを終えたのを確認し、マーリンは自室を出るとなまえを迎える。
ひょいと横抱きにすると、なまえが慌てて抱きついてきたので思わず笑ってしまった。
「ちょ、ちょっと…!」
「まだ回復してないだろう?階段から落ちたら大変だ」
「いや…!この状態の方が危ないでしょ!」
「絶対に落としたりしないから安心して。──なまえ?もしかして熱があるんじゃないかい」
「え?」
抱き上げたなまえの身体は暖かく、首に回された腕まで熱い。
よく見れば顔も青白く、だが頬は真っ赤に染まっていた。
「…そうかな、分からないなぁ…」
「自覚症状が無いほどひどいんだね。相当熱があると思うよ。やっぱりこのまま降りよう」
そう言うとマーリンは有無を言わせず階段を降りる。
怖くてしがみついてくるなまえは可愛くて仕方ないのだが、今はそんな事よりも早く病院に連れて行く方が先決だった。
「緊急入院だって…」
「……そう」
散々やらされた検査の末、告げられたのは入院だった。
なまえは待ちあいで待ち草臥れているであろうマーリンに申し訳なさそうに言う。
病室に通され一通り説明を受けると、なまえはしょんぼりしながら再び申し訳なさそうにマーリンに謝った。
「ごめんね、こんな事になって…。あの…本当に悪いんだけど、着替えとか…いるもの、持ってきてくれると助かる…」
「構わないよ。というか最初からそのつもりだから安心して。私はキミの後見人としてあの家に住んでいるのだから、当たり前だろう?」
「…マーリン…ありがとう」
「どういたしまして。病人が気を遣わなくていいんだよ。それより、入院になったこと、色々連絡しないといけないだろう?私が荷物を取ってくる間に済ませておいで」
「うん、そうだね。そうする。本当にありがとう」
これまでのなまえのマーリンに対する態度は、お世辞にも素直とは言い難いものだった。
共に過ごすうちに距離は縮まったものの、やはり突然現れた妙齢の怪しい外国人に心を開き切れなかったのだろう。
マーリンからすればそんなところも可愛いとしか思っていなかったものの、今のこの素直な態度はどうだろう。とても愛しい。
病気になってよかったなどとは死んでも思わないが、それでも、素直になってくれた事はマーリンを喜ばせた。
「お腹はまだ痛い?」
「まだちょっと…でも本当にだいぶマシになったよ。でも暫くは絶食だって。全然お腹空いてないんだけどね」
「そう…。快復したら何でも好きなものをご馳走してあげるよ。だから頑張って。お見舞い、ちゃんと毎日来るから」
「毎日って…マーリン仕事は?」
「融通が利くから心配はいらない。本当は一緒に泊まり込みたいところなんだけど、それは駄目みたいだからね」
「そ、そこまでしなくても大丈夫だよ!どうせ寝起きしかする事無いからね…」
「…あぁ、ごめん。気が回っていなかった。何か暇を潰せるものを持ってきたらよかったね。明日持ってきてあげる」
「本当にごめんね…色々…ありがとう」
「気にしないで。キミのために何か出来るのは嬉しいんだ。まぁ、心配だから無理はせず早く治してほしいけどね」
頭を撫でるとなまえは苦笑して受け入れてくれた。今までならば気安く触れるなと叱られているところである。
「熱もあるし、もう面会時間も終わってしまうから、私はそろそろ帰るよ」
「…もうそんな時間かぁ」
立ち上がって帰る準備を始めると、なまえが残念そうに呟いた。
そんな声で言われると帰りたくなくなってしまうのだが、その素直な反応はシンプルに嬉しい。
押しても押しても頑固に拒んでいたなまえが、今日はこんなにも素直だ。
どちらのなまえもマーリンにとっては可愛いなまえであるのだが。
「また明日来るよ。よく寝て休むようにね」
「はぁい」
「…あぁでも、もしお腹が痛くて眠れないとか、寂しくてたまらなかったら連絡をおくれ。駆けつける…ことは出来なくても、キミが眠るまで相手をするから」
「私じゃなくてマーリンが寂しいんじゃないの?」
「うん。寂しい。だからいつでも連絡待っているよ」
「……っ」
素直ななまえへのお返しとばかりに直球で言えば、なまえは青白かった顔を紅潮させて言葉を詰まらせた。
熱が上がってしまわないか心配になってしまう。
熱く熟れた頬を撫でながら、マーリンは耳元で囁いた。
「寂しいから、もしキミが眠れたのなら、キミの夢の中にお邪魔することにするよ」
「また気障な事言って…!本当にバカなんだから、もう」
マーリンをバカと呼ぶのはなまえの口癖になりつつあった。
これはなまえが照れて困ったときの決まり文句のようなもので、マーリンはそう呼ばれるのが嫌いではなかった。
なまえはマーリンが夢魔であることを知らない。
だから、夢の中にお邪魔するという言葉も、ただの口説き文句だと思っているのだろう。
寝ても覚めても、マーリンはなまえを見ている。
今宵は夢の中で、きっともっと素直ななまえを、盛大に甘やかすとしよう。
名残惜しく病院を後にしながら、マーリンはなまえが寝るのを待ちわびるのであった。