愛を夢見て恋すら出来ぬ 後

「……寒い」

ぶるりと身体を震わせ、腕で自身をかき抱く。しかしそんな程度ではこの寒さは乗り切れない。

町外れの公園のベンチに腰掛け、自分で自分を抱きしめながら、なまえは途方に暮れていた。

家にはマーリンがいる。だから戻れない。

「……くそ」

思わず憎まれ口が漏れるが、それ以上続ける言葉は持たなかった。

……マーリンを嫌いになったわけではない。

ずっと自分を好きだと主張し続けていたのだ、油断すればどうにかなるかもしれない事など重々承知の上だった。
だけどマーリンは存外紳士的で、自然と縮まる距離感に心地よさを感じていた矢先の事だったので、自分の中でどう処理していいか分からない。

殆ど無理矢理、奪われそうになった。

もしかしたら、唇以上のものを奪われていたかもしれない。

ぞっとした。怖かった。
力では敵わないのだと思い知らされた。

無理矢理捕まれた顎が痛かった。
鼻先に迫るマーリンの顔は、捕食者のそれだった。

「……ばか……」

普段は何を考えているのか分からないやつではあったけれど。
先刻はその瞳が雄弁に思考を物語っていた。

「熱烈に思われている」と言えば聞こえは良い。
だけどあれは、そんなものではなかった。
もっと暗く大きな、底の見えない感情に飲み込まれるような、そんな心地がした。

マーリンが怖い。

「……っ」

せっかく、好きになりかけていたのに。
このまま一緒にいても良いかなと思えてきていたのに……。

「……うー……」

膝を抱え込み顔をうずめる。
涙があふれてどうしようも無かった。

この後どうすればいいんだろうか。財布も持たずに出てきてしまったから、適当な店に入って暖を取ることもかなわない。太陽光がぽかぽかと照らしていてくれるから、とりあえずは大丈夫だろうと自分に言い聞かせてその場に居座る。ただ座っていても何も変わらないのはわかっていた。
それでもあの家に戻る気にはなれなくて、なまえは出がけにこれだけはと上着のポケットに突っ込んだスマートホンを取り出すと連絡先を表示する。

「……」

画面をスクロールしてこんなときに頼れる誰かがいないか一通り探してみるものの、これといった人物を見つけられない。

なまえにだって友人はもちろんいる。けれども遠方へと移り住んでしまっていたり、それぞれの生活を続けるうちに疎遠になってしまったりして、今急に呼び出せるような人物は思いつかなかった。

これがもし、マーリンとのいざこざでなかったなら、きっと私はマーリンを頼っていた……。

そんな風に考えてなまえはふふっと鼻先で己を笑った。
今もマーリンが怖いのに、怖いときに駆けつけてくれるのはマーリンだと信じている。

いっそ向こうから来てくれないものか。
平身低頭謝って、もうしないと約束してくれるなら、私も仕方なく許したふりをして家に帰る事が出来る。

なんてことを考えている時点でマーリンの事を半ば許してしまっていることになまえは気付かないふりをしながら、益体もなくスマートホンをいじり続けて何もかもを誤魔化した。

「っくしゅんっ!」

どれだけの時間が経過したのか、辺りが暗くなり始めた頃。
不意にかすめた肌寒い風に刺激され、くしゃみをしたなまえはぶるりと震えるとスマートホンの時計を確認してため息を吐いた。

もうこんな時間か。
いい加減帰るなりしないと流石に風邪を引いてしまう。

そうは思いつつその場をなまえは動けずにいた。
そもそも、確かになまえは財布を持たずに家を出たが、暖を取るだけならコンビニでもスーパーでも入って彷徨いていればいい話だ。
最初は涙が止まらないから仕方ない、と思っていた。だけども、涙は時間の経過と共に尽きている。
それでも根が生えたようになまえは其処から動けない。
その場に留まっていたからって、何も変わりはしないのに。

誰にも何も伝えていない。
其処になまえが釘付けになっているのを知っているのは、なまえ本人だけなのに。

──私は、何を待っているんだろうか。

はぁ、と吐いた息が白く空気に溶けていく。
日が落ちたら、流石に寒さを我慢出来そうにない。

「なまえ」

さく、と落ち葉を踏みしめる音がして、そんな声が降ってきた。
うなだれていた顔をそっとあげると、其処には思った通りの人物が立っていた。

「……マーリン」

常ならきっと、マーリンは人好きのする微笑を浮かべてなまえに応えたろうに、マーリンは真顔に棒立ちで突っ立ったまま、じっとなまえを見下ろしている。

「…………、何」

痺れを切らしてなまえがそっと問いかけると、マーリンは一度半端に口を開いたかと思うと再び閉じて、ゆっくりとなまえに近づいた。

なまえは内心ドキリとして冷や汗をかいた。
涙は収まっても、先ほどの衝撃はまだ鮮明に残っている。

マーリンは相変わらず無表情だ。何を考えているのかなまえにはさっぱりわからない。
元から分からないやつではあったけれど、今は輪をかけて分からなかった。

「キミが──」

ようやくマーリンが口を開く。
少しだけ近づいた距離に張りつめていた心も、マーリンの声音に少しだけ和らいだ。

柔らかな声だった。

「キミが、あんまり遅いから、迎えにきたよ」
「……」

今度はなまえが口を開いたり閉じたりする番だった。

本当は自分で気づいていた。彼が迎えに来るのを待っていたことを。
だからこんな、家から比較的近くて、すぐ気づいてもらえそうな場所を陣取っていたのだ。

いつも何でもお見通しのマーリンなら、どこにいたって見つかっていたかもしれないけれど。

「……言いたいことはそれだけなの」

だからって素直にマーリンについて帰るわけにはいかなかった。
なまえにだってプライドはあるし、仮にも女の子を泣かせたというのに謝罪一つ無いままのマーリンになまえは眉を吊り上げる。

「謝ったら、キミは許してくれるのかな」

相変わらずマーリンの表情は変わらない。平然としているようにすら見える。
けれど平素のマーリンを知っている者なら誰もが思うだろう。こんなマーリンは珍しい、と。

「そんなの謝られてみないと分からない」

なまえがつっけんどんに返すと、ようやくマーリンは苦笑を漏らした。
今のは笑うところではない。

まったくマーリンは本当に意味が分からないとなまえはますます眉根を寄せて不機嫌顔になる。

マーリンはなまえの横に腰掛けると、ふと空を見上げた。
なまえもならって空を見上げる。

もう日はすっかりと落ちて、夜の帳が降り始めていた。

「キミは優しいね」

マーリンがふと呟く。
突然の発言の意味が分からずなまえは首をかしげる。

「あんなことしてキミを泣かせたのに、口を聞いてくれて隣に座るのを許してくれるなんて」

言われてなまえは咄嗟にマーリンから距離をとった。しかしマーリンはその分距離を詰めて座ってくる。

「今更逃げるなんて許さないよ」
「許さないは私のセリフなんだけど!?」

焦りながら発した台詞にマーリンはくすりと微笑みを一つこぼすと、まっすぐなまえを見つめながら妙に寂し気な顔をして「ごめん」と一言呟いた。

「キミの気持ちを考えずに性急な真似をしてしまってすまなかった。そんなつもりじゃなかったのに」

苦しげに顔を歪ませるマーリンに、なまえは心の内で苦しいのは私の方だとぼやく。そこは申し訳なさそうな顔をするところであって痛そうな顔をするところではない。
けれどもその顔を見ていたら、なまえも切なくなってしまう。我ながらちょろいにも程があると思いつつ、マーリンがそんな顔をするのは初めて見たものだから、驚いてなまえの怒りも引っ込んでしまった。

「……いいよ、もう……。反省しているなら……」
「良くないよ。キミにとって良くない。私は罰を受けるべきだし、キミは私をそんなに簡単に許してはいけない」
「ええ……?良いって言ってるのに」
「駄目だよ。男に襲われかけて、そんなに簡単に許すのかいキミは。そんなんじゃまた私は簡単に理性のタガを外してしまう。キミを傷つけたくはないのに」
「……」

そう言われては何も言えなくなってしまう。
なまえだってそれは二度とごめんであった。本当に本気で、怖かったから。

「それに、他の男にまで同じ態度を取られたらそれこそ許せそうにない」
「するわけないでしょ!」

間髪入れずに否定したら、マーリンは驚きに目を丸くしてなまえを見やった。

「あっいや…!その、時と場合によるっていうか、マーリンには私もいろいろお世話になってる面もあるし本当に反省しているみたいだから許したのであって…そんな簡単に、許したり……しないよ……」
「…………いや、それが簡単すぎるって言ってるんだけど……、そう、私だから許すとキミは言うんだね」

そう言われてなまえは「違う」といつものように否定したくなったが、しかし違っていないので言いよどむ。確かに怖かったし悲しかったし、怒ってもいたのだけど、それはマーリンが嫌だったからではないのだ。

「……だって、そもそも、私がマーリンを試すような事を言ったのも悪かったと思うし」

言い訳じみてると思いながらもなまえはそれを口にした。
100%マーリンが悪いと言い切れないのは、挑発するような事を言ってしまった負い目があるからだ。

「キミの、その優しさは美徳なんだとは思うけどね」

呆れたようにため息をつくマーリンの口から白い靄が拡散していく。
ぼうっとそれを見つめながらなまえの脳裏には「この人ちゃんと人間なんだな」とまるで見当違いな考えがよぎった。

「自分を傷つけた相手に、自分が悪いなんて思うことはないよ」
「……でも、マーリンも傷ついたんじゃないの」
「傷ついてない」

はっきりと言い切られてなまえは面食らった。
そもそもその傷つけられた本人が許すと言っているのに、どうしてマーリンはそれを拒否するのだろう。
普段のマーリンならば、おそらく手放しで「本当に?ありがとう!」などとさらりと受け入れていつも通りに振る舞おうとするだろうに。
何だか今日のマーリンは全体的に変だ。

傷ついてないというマーリンの一言は、寧ろなまえの心を抉った。

うそつき。

でなければ、どうしてあんな態度に出たというのだろうか。

「私に、傷つくような心なんて無いさ」

そんなわけがあるものか。
如何にマーリンが飄々として楽以外の感情に乏しいように思えても、傷つかない人間などいるはずがない。

なまえにとって、マーリンは自分と同じ世界に暮らす人間である。
だから言われた言葉を信じる事など到底出来なかった。

「私に同情などする事はない。何をどう言われたって、私は変わらないよ。──キミへの想いだけは、ちょっと別だけどね」

それこそ、ひどく傷ついたような顔で言われて、なまえは困惑して押し黙る。

しんと静まりかえった夜の公園に、押し黙った男女が二人。
マーリンはずっと空を見上げたままだ。
なまえはマーリンをじっと見ている。

「帰ろう」

おもむろに呟くとマーリンは立ち上がった。

「約束するよ。もうキミに許可無く触れたりしない」
「……」

それはマーリンなりの誠意ではあったのだろう。
しかしなまえは、そんな自罰を受け入れるつもりはなかった。

「嫌だ」

断られた事に驚いてから、マーリンは困ったように笑う。

「私が嫌がったらやめられるなら、別にそれでいい」
「……そんな事を言われたら、期待してしまうよ。キミの優しさは僕への愛故なんだってね」

そしてその優しさにつけ込んでしまう。
マーリンは人の心を知らないのに、そこに入り込むのは上手かった。
最初から、そうやってなまえを手に入れるつもりでもあった。

でも。

(僕への愛は、なまえの中から自然に発生したものであってほしい、とか)

それこそ物語の乙女のような思考に、マーリンは内心で己を嘲笑う。
愛のなんたるかも、恋の仕方すらも知らない夢魔に、そんな欲を抱かせるのは、この世でなまえただ一人である。

「ばか」

控えめになまえは、いつもの口癖を口にした。
そして立ち上がると伸びをする。

「……愛故、とか言うなら──」

するりとマーリンを追い抜いて前を歩きながら、なまえは密やかに囁いた。
なまえの声はよく通る。

「マーリンの優しさも、愛故なんだって私を信じさせてみてよ」

それはささやかで、痛切な願いの言葉だった。

LIST