愛を夢見て恋すら出来ぬ 前

「……っ、……ま、マーリン?」

鼻先に迫るマーリンが目を細める。
その目の奥に熱が宿ったのが見てとれて、なまえは思わず背中をぞくりと震わせた。



何が起きたというわけでもない。

休日だからと昼過ぎに起き出したなまえがリビングに出ると、既に起きて寛いでいたマーリンに遭遇した。

「おはよう。寝坊助だね」
「だって…寒くて」
「暖めようか?」
「一応聞くけどどうやって?」
「勿論、抱きしめて」
「却下!」

相変わらず軽薄に口説いてくるマーリンを慣れた様子であしらいながら、なまえはマーリンの隣に座ると積み上げられた本に手を取った。

「何だい、構ってくれるんじゃないのかい?」
「えー?マーリンは自分のやりたい事やりなよ」
「私がやりたい事なんてキミといちゃつく事しかないんだけど」
「いちゃつくって何だ!」

ばしんと軽く頭をはたくと「いてっ」とマーリンが声をあげる。
嬉しそうな顔でニコニコしながら言う台詞ではない。

「…何、マーリンはMなの?」
「うん?Mではないと思うよ。ならSか?と言われるとそれも分からないけど」
「人のことしょっちゅうおちょくってくるしSかな」
「それはキミに構ってほしいからだよ」
「…SとかMとか以前に変態なの忘れてた」
「純粋な愛なのになぁ~」

一ミリも心のこもってなさそうな発言にため息を吐くと、なまえは手に取った本を机に戻した。
何だかんだ言ってマーリンと過ごすのは楽しいと思う。

この家にマーリンが住み込む事になったときは何かされるのではないかと物凄く警戒したのだが、其処は流石に後見人の顔を立ててか、からかってくることはあってもそれ以上の事をされた事はない。
それにしたって依然正体不明であることには変わりないのだが、まぁ、少なくとも人となりは嫌いではないし、共に暮らすのも苦ではなかった。

どころか、実のところちょっと楽しい。

一人暮らしには広すぎる家とはいえ、共に暮らす者がいることがこんなにも安らぐとは思いもしなかった。

基本、なまえは一人が好きだった。
というよりも一人の時間に慣れすぎていて、誰かといる楽しさよりも一人の楽さが性に合っていた。

だけど、こうしてマーリンにちょっかいをかけられるのは存外悪くない。

読もうとしていた本を見つめ、またの機会でいいか、となまえは思う。
以前なら、買って帰宅した直後に読み始めていたのに、いつでもいいやという気持ちの方が今は勝っている。

「しまったなぁ」

苦ではない沈黙をマーリンが唐突に破る。
疑問符を浮かべてマーリンを見れば、どこがしまったのかと聞きたくなるようないつもの笑みを浮かべてマーリンはなまえを見つめ返す。

「どうせならキミをデートに誘えば良かったよ。こうして二人きりで過ごすのも、悪くはないんだけどね」

にこりと微笑んで言われた言葉に、なまえはうっかりと頬を染める。
マーリンのこの手の言動にはだいぶ慣れたものの、それでもやっぱり照れるものは照れる。
マーリンはイギリス人だというけれど、本当はイタリアか、フランスあたりの出身なのでは無いかとなまえはこっそり思っていた。

「いちいちそういう言い回ししないで、遊びに行こうって言えばいいのに」
「男女が連れだって出かけるなら、それはデートだろう?それに、私はキミをエスコートしたいんだからね」
「はぁ~もう歯の浮くような台詞ばっかり言って」
「え、そんなに大したこと言ってないよ」
「日本人は愛してるを月が綺麗ですねって言うくらいシャイなんだよ!十分歯が浮くよ!」
「それで伝わるのかい?凄いな日本人」
「いや多分普通に伝わらないけどね、まぁ愛してるってなかなか言わないのは確かじゃないかな…」
「言われたこと、無いのかい?」

問われてなまえは困った顔をした。
無いか、と言われると、無いとしか言いようが無い。
しかし目の前のマーリンはきっと沢山言ったのだろうし、言われたのだろうと思うと何となくちりりと胸が痛んだ。

「…好きって言われたことなら、あるけど」

別に対抗したかったわけではないが、何となく自分ばかりがドギマギさせられているのは癪で、なまえはそう言ってみた。
マーリンが本当になまえを好きだと言うなら、少しくらいは妬いたりしてくれるだろうか…。
そんな風に考えながらドキドキしてマーリンを見ると、真顔のマーリンと目があって固まった。

「それって、この間キミが遊んだ男だね」

別段不機嫌そうというわけでもなく、ただただ真顔で告げられる。
言葉にも特別な色は含まれていなかった。
だけど、普段の柔らかな声音とは全く違うその平坦な声は、なまえを怯ませるのには十分すぎるギャップがあった。

「…な、何で知ってるのかな…」

実を言うと、つい最近男友達から告白されたばかりだった。
その場ですぐに断ったし、マーリンの前で態度を変えたつもりはない。
しかしマーリンは何故かいつも、なまえの行動を具に把握しているようなのだ。
無論千里眼の力によるものだが、マーリンを普通の人間と信じ切っているなまえがそれに思い至るはずも無く。
それ故なまえはいつも不思議に思いながらも、最近ではすっかり慣れて受け入れてしまっていたのだった。

「一応言っとくと、断ったよ」
「知ってるよ」
「だから何で知ってんの…?」
「秘密。キミが知らない事も知ってるよ。キミに懸想してる男が最近増えたんだよ、気付いてないだろう」
「は?え?」

尋ねた言葉をサクッと両断されたと思えば、思いも寄らない言葉を放たれてなまえは困惑する。
実を言うとなまえ自身も、確かに最近ちょっとモテ始めた気はしていた。
というのも、原因ははっきりしていて。
マーリンから(やや強引に)服や化粧品を見繕われるうちに、どちらかといえば地味な印象だったなまえの容姿も、華やかに変わって行ったからだ。

最初はマーリンの隣を歩くなら少しは華やかにならないと、と半ば劣等感でしていたお洒落が、今は楽しくなってきて自分からあれこれと試している。
そういう意味ではなまえはマーリンにとても感謝していた。

「いや、まぁそれは…遊びに声をかけられる回数は増えたけど、懸想なんて」
「声をかけている時点で男には下心があるんだけどね、でもキミに焦がれる男が増えたのは事実だよ」
「そんな多少見た目変わったくらいで。中身は変わってないのに」
「そんなものなんだよ、男っていうのは単純で、よく知っている女の子が急に可愛くなったってだけで惚れてしまうんだ」
「仮にそうだとしても…私は好きな人いないから変わらないよ」

スゥとマーリンが目を細める。

「好きな人はいない、か……」

小さく呟かれた言葉は、はっきりとなまえの耳に届いた。

「まだ、僕のこと好きにならない?」

じっと見つめられ問われた台詞に、なまえは咄嗟に返事を返せなかった。
マーリンの事は嫌いじゃない。
共にいるのは楽しいし、からかわれるとドキドキしてしまう。
けれど、好きかと聞かれるとまだよく分からなかった。

そもそも、なまえはマーリンの事を何も知らない。
なまえの事を何故か詳細に把握しているマーリンと違って、なまえがマーリンについて把握している事は非常に少ない。

名前がマーリンであること。
何故か自分の後見人に収まるツテがあったこと。
自称イギリス人であること。
仕事は知らないが自由業で、お金にはどうやら困ってないらしいこと。
女の子が好きだということ。

分かっているのはこのくらいである。
改めて考えてみると、本当に何も知らない。年齢すら不明のままだ。

「……まだって何さ、まるで私がマーリンを好きになるのは当然みたいな言い方しちゃって」

結局、出てきたのははぐらかすような軽口で。

「当然だよ。確定している。キミは私を好きになるよ」

淀みなくそんな事を言われてしまい、なまえはますます困った顔になってしまった。

「何でそんなに自信満々なのさ」
「知ってるから……かな?」
「何それ、未来予知?」
「はは、そんなようなものかな。キミと私は結ばれる。絶対にね」
「そうかなぁ。マーリンの言うとおり私を思ってくれる人が他にもいるなら、胡散臭いマーリンよりも気心知れてる人を選んじゃうかもしれないよ」
「そんな事、絶対に無いよ。というか、それは私が許さない」
「許さないって……」

マーリンの瞳にぎらりとした光が宿る。
その光に射抜かれて、なまえはぎくりと固まった。

「じ、冗談だよ。私今本当に好きな人いないし、焦って彼氏作ろうとか思ってるわけでもないし…」 

背筋がざわざわと泡立つ。
普段通りの軽口だったのに、いつもと違う雰囲気に咄嗟に言い訳が口をついて出た。

「…そうだろうとも。分かっているよ。でも横からつまみ食いされるのは、やっぱりいい気はしないよね」
「つ、つまみ食いなんかされてないよ!」
「されてる。頭を撫でられたり、手を握られたりしていたじゃないか」

だから何で知ってるの!?

そう問いたいが恐ろしくて口には出せなかった。
今まで考えないようにしていたし、慣れて気にしなくなっていたが、やっぱり其処まで知っているのは異常だと思い至り、なまえの背中にぞっと怖気が走る。

「キミは、誰にも渡さないよ」
「……っ、……ま、マーリン?」

鼻先に迫るマーリンが目を細める。
その目の奥にじわりと熱が宿ったのが見てとれて、なまえは背中をぞくりと震わせ後ずさる。

マーリンがなまえの頬に手を伸ばす。
するりと掌で撫でられて、なまえはびくりと身体を震わせた。

「ま、」
「……なまえ」

髪を一房手に取ると、マーリンがそれに口づける。
ぼっと頬が燃え上がるような感覚がして、どうしていいか分からずなまえは身動ぎ一つ出来ず固まった。

すっ、とマーリンの身体が近づく。
目と鼻の先にマーリンの顔がある。

思わずさっと目をそらせば、マーリンに顎を捕まれて無理矢理目を合わさせられた。

「……っ!」
「……真っ赤だね。可愛い」

マーリンの声は砂糖菓子のように甘く、なまえの耳を震わせる。
いつもの軽薄な口調とは随分と違っていて、そこに含まれる色に気付かないわけにはいかなかった。

これはまずい、となまえは思う。
けれどどうしていいか分からない。

そうこうしているうちに、マーリンがなまえに体重をかけてきた。
抵抗出来ず倒れ込む。

「……っあ、ちょ……」

流石に看過できずぐいっと押し戻せば、マーリンにその腕を取られてしまう。
そのうえマーリンは腕に唇を寄せて愛しげに口付けてきた。

「……っ!!」

顔に熱が集まる。
マーリンの目がなまえをとらえる。

再びマーリンの顔が迫ってきて、なまえは慌てて顔を逸らした。

「……どうして避けるんだい」
「ど、どうしてって……!当たり前でしょ!!離して!!」

不満げなマーリンに言葉を荒げて言い返すが、マーリンの態度は変わらない。また顎を持ち上げられ無理矢理に正面を向かされる。

「……!」
「……ねぇ、本当は分かってるんだろ?キミは僕が好きなんだよ」

にやりと口元を歪めてマーリンが言う。
問われた言葉になまえは何も言えない。

確信が持てないからではない。
恐ろしくて言葉を発する事が出来なかったのだ。

「……なまえ」

マーリンの顔が降ってくる。
必死で逃れようともがくが、いつの間にかしっかり身体の上に乗られてしまって腕一つまともに動かせない。

唐突になまえは理解した。

マーリンは男で、自分は女なのだと。

「……っ、ぅ、……」
「……なまえ?」

ぼろぼろと、なまえの瞳から涙が零れ落ちる。

「ひっ、う……お願……やめ、て……」

マーリンは今更、なまえがカタカタと震えている事に気付いてはっとした。

「……っ、なまえ、ごめん、ごめんよ……泣かないで……」

自分がなまえを怖がらせてしまった事に気づき、マーリンが慌ててなまえの上から飛び退くと、さっとなまえは立ち上がり部屋を出ていってしまった。

「あ……待っ……」

引き留めようとして、今は自分が何をやっても逆効果に思えてその言葉は尻すぼみに終わる。

どうやらなまえは家を出ていってしまったようだ。
この家にはマーリンがいるから、出ていくしかなかったのだろう。

「……やってしまった」

ここまで慎重に事を進めてきたつもりだった。
なまえとも随分打ち解けて、もう後は少し強引に行っても大丈夫だろう……などと考えてしまったのが間違いで。
なまえは、普通の女の子なのだ。
急に男に迫られ押し倒されて、怖くないはずがない。

なまえなら自分を受け入れてくれるはずだ、などと考えてしまったのが間違いだった。
……いや、それもあるが、一番は焦ってしまったのが敗因だろう。

別にマーリンは、なまえがモテ始めたからと言って特別思う事があるわけではなかった。
寧ろ自分の手で可愛らしく花開くなまえは周りに見せつけたいくらいだ。
だからこそ、なまえにあれこれと世話を焼いたのである。
なまえの容姿など、マーリンにとっては殆ど意味をなさない。どんな姿も、なまえならマーリンにとっては等しく愛しいからだ。

だけどなまえの周囲の男はそうではない。人間は良くも悪くも即物的な生き物だ。
急に可愛くなったなまえに近づく男が増えたのは、まぁ想定の範囲内ではあった。
なまえはそれでも必ず自分を選ぶという確信もある。

それでも、実際なまえに他の男が迫る様を目の当たりにすると、やっぱり嫌な気分にはなった。

だって自分は1500年待ったのだ。
いつになるか分からない再会のために、今日まで長らえてきたのである。

ずっとずっと、会いたかった。
どうしても手に入れたかった。
だからマーリンは、アヴァロンを出たのだ。

全ては、なまえを手に入れるため。

それを──
誰とも知れない男に、横から攫われてはたまらない。
そうでなくとも、無遠慮に触れるのも許せない。

その髪は、手は、僕がどうしても触れたくて、決して出来なかったものなのに──。

ごろりと仰向けに寝転がると、マーリンは深くため息を吐く。
自分にこんな苛烈な感情があったなんて、つい最近まで気付いてすらいなかった。

有象無象などどうでもいい。
だけど、なまえはマーリンにとってこの世界と同じくらい──否。それ以上に美しい、唯一無二の宝物だ。

「愛してる」などという言葉一つでは伝えきれない想いが、マーリンの胸の中には渦巻いていた。

「…きっと、人間の愛とは違うのだろうな」

ぽつりと呟いて、空を見つめる。

……マーリンには世界の全てが見える。

なまえが今どこでどうしているかも、それ以外も、何もかもが見えている。

自分は人間とは違う生物である。

「……それでも、キミを愛してる」

喉から搾り出されたような声は、誰にも聞かれることなく空中へとかき消えた。

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