Fall in love 後編
腕の中で幸福に浸るなまえの背中を見下ろして、マーリンは思案する。
どこにも居場所のない自分が、誰かの帰る場所になるなんて滑稽な話だ。
今日だって、会いに来たというよりも、一つの旅が終わり、次の朝が始まるのを知らせにきた、というようなつもりだった。
しかしそう考えると、マーリンはなまえにとって日常の象徴ということになる。
今更ながらそんなことに気づいて、マーリンは思わず脱力する。先を導く賢者でいるつもりが、いつの間になまえの「いつも」になってしまっていたのだろう。
いや、それを言うならマーリンもそうだ。「マイルームの」「ベッドの上で」「ただお互いの話をする」――それが「日常」になっている。
思えば、これだけ同じ夜を過ごした子は、他にはいなかったかもしれない。
その旅路を見つめていたいと、それが素晴らしいものになるよう手を貸したいと、そう思っていた筈なのに、こんな小さな部屋一つに培われた思い出の方が、何倍も大きい。
何度か場所は変わったけれど、過ごした時間はどれも同じで、それなのに退屈したことはない。――ああ、これを日常と言うのか。
幸福な日常へとなまえを帰したい。そんな風に思いながら、実質マーリンには日常の何たるかは理解出来ていなかった。
ただきっと、なまえの人生ならば、それがどんなに平凡でも、見ていて退屈することは無いだろうと、そう考えていただけだ。
今となっては、実感としてそれはある。しかし、そこに自分がいるなど露ほども思ってはなかった。
線を引いているつもりだった。
これより先に進んではならないと、冷静に対処していたつもりだった。
しかしどうだろう、振り返ってみれば、自分もなまえも、とっくに一線を越えていたのではないか。
朝。目を覚ましたなまえに、おはようと囁き、その身に触れる。
そんな毎日が当たり前で、……当たり前になってしまった時点で、もう、自分からは、終われない。
なんだ。
とっくに僕は、キミを手放すことなんか、出来なくなっていたんじゃないか。
「――、キミには、負けたよ…………」
深い深い断絶を、今もマーリンは感じている。
相容れない。共感出来ない。何もわかりあえてなどいない。
なまえは手放すしかない。
それでも、今だけ、ほんの少し、刹那の間際に、終わらない今があるのなら。
自らの恋を、キミに注いでも構わないだろうか。
「……マーリン?」
おずおず、となまえが腕の中で、マーリンを見上げようとする。
その頭を押さえつけて、肩口に抱き込んでやると、ぅ、となまえが苦しげに小さく呻いた。
「結婚してくれとか、バカなこと言って。人の気も知らないで、本当にキミは困った子だ。……僕が、いつも、どんな気持ちで、キミの告白を聞いていると思うんだい?」
「え、……えっと、…………?」
さっきの告白など、とっくにスルーされたものとばかり思っていたなまえは、困惑して身じろぐ。マーリンの顔を窺いたくとも、大きな手を頭に添えられているので、顔をあげることが出来ない。
自分の心変わりが自分で信じられず、負け惜しみを口にしてみるマーリンだったが、言ってしまえばなんだか本当に腹が立ってきた。もっと恨み言を言ってやりたいところだったが、そうすると自分がなまえにすっかり骨抜きにされているのを暴露することになってしまうので、そこは伏せることにする。マーリンからしてみれば、なまえは自身最大の弱点で、もはや何を言われてもされても可愛くて仕方ないのだが、なまえにとってのマーリンは、いくら愛を伝えても届かない高嶺の花だ。そんななまえの勘違いを正してやるつもりは、マーリンには無い。だって、それを伝えてしまったら、本当に自分の負けだ。
――それでも。
ただ根負けした、とでも言うように。マーリンは一つため息を吐くと、ようやくそっとなまえを解放した。
そろりと自分を見上げてくるなまえの目を穏やかに見下ろして、その頬に手を添える。
「僕の負けだ。――キミが好きだよ、なまえ」
「…………――」
なまえの目が大きく見開かれる。まだ触れていた部分から、なまえがふるりと震えたのがマーリンにも分かった。
「傍にいたいのは僕も同じだ。キミが好きだよ。――愛している」
「あ、愛、……っ!な、ぁ、えっ……」
返ってくる筈が無い言葉に、なまえは慄いた。みるみる顔に熱が灯り、ぶわりと汗をかく。これはやっぱり夢なのではないか。今更ながらになまえはそれを疑い、本当に夢かもしれないと考えて、泣きそうになる。
そういえば、何だか以前に、そういう夢を見た気がする。
キミが好きだよと、マーリンに告げられる夢。
「……っ!」
自身にかけられていた布団をはねのけて、なまえが勢いよくマーリンに抱きつく。しっかりとその身体を抱き留めて、マーリンは再びなまえを抱き締めた。
「っま、マーリン、マーリンっ、マーリン……!」
「何だい、可愛いなまえ」
実のところ、マーリンは負けを認めてなお、好きだと告げることには躊躇があった。端的に言って、怖かった。
今このときばかりの幸福は、後の破滅への布石だ。だからマーリンは、どんなに愛情深く接しても、決してその真意を告げることだけはしてこなかったのだから。
けれどもなまえは、どんな苦境を経ても、変わらないきらめきを見せてくれた。
もうおしまいだからと、その恋を捨てるのではなく、しがみついてでも永くいたいと。
飽きもせず何度も。強欲に、愛してほしいと、懲りずに幾度も幾度も。
マーリンはもう、一度手放してしまったのに。
以前に好きだと告げたときには、それは終わりの合図だった。
だけどなまえは、終わりを精一杯引き延ばしてみせるという。
そんな足掻きの末に、本当に両思いになって、幸せになれました、なんて、そんな
なまえの決意は間違っているし、愚かさを物語っている。マーリンには到底容認出来ない馬鹿げた言動だった。
なのに、いや、だからなのか。
なまえをそのまま放っておいたら、一人で破滅してしまいそうだ。
そんな風に、どうにか自分の衝動に理由をつけると、マーリンはようやく、何か解き放たれたような心地がした。
ずっと、苦しかったのだ。今まで嘘ばかり吐いて生きてきたのに、なまえへの感情を誤魔化し続けるのは、そもそも心などほとんど持たないマーリンには難しかった。
考えてみれば、感情のコントロール方法なんてよく知らないのに、よくもまぁここまで耐えられたものだと、自分で自分を褒めたくなる。
そんなマーリンの気苦労に報いるかのように、なまえはマーリンに抱きついてぼろぼろと泣いた。当然労っているわけではなく、ただ己の激情に流されて涙が止まらないだけなのだが、なまえの悲嘆に弱いマーリンは、歓喜の涙を流すなまえの姿に、何だかひどく嬉しくなった。
「ゆっ、っ、ゆめ、じゃなっ、ないっ、よね」
「さっき言ったろう、夢じゃないよ。キミは夢の中でもこんな風にぼろぼろ泣くのかい?」
「わっ、わか、な……っ、あっ!!にっ、にせものでもないよね!?」
「偽物って何だい。……誓って本物の、いつもキミが夢中な、花のお兄さんのマーリンだよ」
ほら、と抱きつくなまえにそっと顔を寄せると、涙でぐしゃぐしゃになったなまえの顔が現れる。本当の本当に夢じゃないか、相手は正しくマーリンなのかを見定めるように、ぽろりぽろりと涙を零しながら、じっとマーリンを見つめるなまえ。
「信じてくれた?」
なまえの目から際限なくこぼれ落ちる涙を指先で優しく拭いながら、穏やかにマーリンは尋ねる。くすぐったさに思わずなまえは身をすくめた。反射的に伏せた顔をあげないまま、ぎゅっとマーリンのローブを握り締める。
「……しんじ、られ、ない」
「そいつは困ったなぁ」
おどけたようにマーリンが言う。なまえにしてみれば、今の今まで頑なに拒み続けられていたのに、急に手のひらを返されたのだから、信用しろと言われても難しい。とは言っても、マーリンがなまえを好きではない、という今までの主張の方が、誰が見ても疑わしかったのだから、ようやく本音を話したのかと、なまえ以外が聞いたならそう思ったことだろう。
なまえだって、マーリンに大事に思われていた自負はある。尊重と愛着は感じていた。何ならそれを恋と呼ばないなら何なんだとさえ思っていたのだが、いざ実は好きでした、と言われても、素直に受け入れることは出来なかった。
自業自得ではあるけど、と心中でマーリンは呟く。こうなるのなら、もっともっと早くに応えていればよかった。
なまえの言うように、もう最後は近いのだ。なまえの傍にいつまでいられるか――いつまでなら、いても許されるのか。あまり長引かせたら引き時を失う。そうならないように、踏み込まずにいたのだが、結局こうして落ちてしまうのなら、最初から開き直っていれば良かった。
自分勝手にそんなことを思いながら、マーリンはなまえの頬に唇を寄せる。涙に濡れた頬に口づけると、顔をあげたなまえの唇にも口づけた。
「本当はずっと我慢していたんだ。キミに応えたとき、自分がどうなるのか、分からなかったから。だって、好きな子に好きになってもらえたの、初めてだったんだよ」
恋心をぶつけられるのはそれなりに慣れている。恋を知らずに恋を語られた初恋もあった。だけど、恋した人に、恋をされるのは本当に初めてだったから。
「……でも、……だって、わたしの、どこが……?」
「どこも全部、可愛いよ」
「可愛いって、なに……うそだぁ……」
再びぼろりとなまえの瞳から涙が溢れる。
改めて好きだと言われると、逆にどこを好きになってもらえたのか分からない。あんなに待ち望んだ状況なのに、なまえは半ば混乱していた。
「あんなに周りから愛されてるクセに、私の愛は信じられないのかい?」
「信じられなくさせたのはマーリンでしょ……」
「困ったなぁ」
と、大して困ってなさげに言ったマーリンだが、割と本気で困っていた。だって自分でもなぜなまえが好きなのかは言語化が難しい。どこが好きなのかは答えようと思えばいくらでも話せるが、それは夢魔が恋をするに足るものかと言われたら、正直分からない。
だがなまえは、確実に自分を魅了している。
「キミが信じてくれるまで……いや、関係ないか。もう好きだって言ってしまったんだから、イヤになるくらい伝えるよ」
「……イヤになんて、ならない……」
「ああもう、そういうところが可愛いんだよ」
たまらずマーリンはなまえを抱き寄せる。ぎゅむと抱き締めて頬ずりすると、なまえは声にならない声をあげて、小さく身動ぎした。
可愛いと言われたことは幾度もあるが、本当に自分を好きで、だからこそ可愛いのだと。そんな風に言われたら、何だか物凄くむず痒い。妙に気恥ずかしくて、顔が熱くてたまらない。
マーリンの腕の中で、混乱の果てに何も言えなくなったなまえは、しがみつくようにしてマーリンの胸板に顔を埋めた。
「納得した?」
「……分かんない……」
「そう。信じてもらえるようこれから頑張るよ」
「…………」
くらり、なまえの目が眩む。まだまだ疲労が残っている中、この衝撃はなかなかに堪えた。
だけどもこのままもう休もう、なんて気には到底なれない。万が一、眠ってしまって、起きてみればやっぱり夢でした、なんてことになったら、立ち直れる気がしない。
「……マーリン…………」
「何だい、なまえ」
名を呼ぶと、いつだってマーリンは優しく返してくれた。今もそうだ。
それでも一方通行なのだと思っていた。そう思わなきゃいけなかった。
でも、違った、らしい。
「…………だいすき」
「うん。僕も、キミが大好きだよ」
言って、マーリンはなまえの頭をそっと撫でた。
好きだと言って、好きだと返ってくる。
好きと言われて、自分もと返せる。
そんな事に今更思い至って、なまえはまた、じわりと目を潤ませた。
そんななまえを抱いたまま、マーリンはその頭を優しく撫で続ける。
とくんと胸の内で、鼓動と共に熱の高まる心地がする。
思いを交わさなくたって、そこに心はずっとあった筈なのに。
こうして通じてしまった感情は、また更にしみ入るようで――今はただ、その幸福感に、二人して呆然と浸るのだった。